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『じいちゃんさま』梅佳代(リトルモア)

じいちゃんさま

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梅佳代「出生の秘密」に迫る」

『うめめ』『男子』と立てつづけに写真集を出してきた梅佳代の第3弾である。彼女のことは新聞雑誌でよく取り上げられ、テレビにも出るので、いまや82歳の私の母までもが「ああ、あの人ね」と言うくらい、よく知られた存在である。

帯には『うめめ』11万部突破! 『男子』4万部突破!とある。タレント写真集以外でこれほど売れた写真集は近年では珍しいのではないだろうか。彼女の写真がいわゆる写真ファン以外の一般層にも浸透しているのがわかる。

だが、そうした人気の高さが写真家梅佳代への理解につながっているかというと、どうもそうは思えない。カメラを首から下げて四六時中動き回っているキャラクターが強調され、おもしろがられているきらいがある。世間の反応はそんなものだと思いつつも、歯がゆくてならない。梅佳代の存在価値はそんな珍獣を眺めるような視線ではとらえきれないからだ。

石川県能登町の実家に暮らす祖父と家族を撮ったもので、一作ごとに姿をあらわしつつある彼女の本質が全開になっている。世間はたぶん、あのおじいさんを撮ったやつね、という感じで流すだろうが、まさに梅佳代の「出生の秘密」を語ったものとして意義深いのだ。

『うめめ』や『男子』が出たとき、私はこの写真家のあまりにも真っ正直なありように驚き、たじろいだものである。写真の神様が「ストライク!」と叫びそうなほど、表現意識を捨てて直球勝負で挑んでいる。だれもが表現者たらんと躍起になっている今の世で、原石のまんまでどっかりと座っているような安定感があるのだ。どうしてこんなに自意識から自由でいられるのだろうと不思議でならなかった。

だが、『じいちゃんさま』を開いたとたんに、その疑問がすとんと腑に落ちた。ああ、そうか、そいうことか、とひとりうなづいた。彼女が育った環境とあの写真とが分かちがたく結びついていることが、一目で了解できたのだった。まず、じいちゃんさまの暮らす(そして彼女が生まれ育った)家がすごい。太い木の梁が浮き出た白いしっくい壁の、屋根には銀鼠色の瓦を載せた、何世代も経たような古い民家である。長い縁側には大きなガラス戸が何枚も連なり、大きな踏み石が下に置かれ、家の周りにはじいちゃんさまと家族が作っている田んぼと畑が広がっているという、じいちゃんさまご自慢の、農家の見本のような住まいなのである。

「あえのこと」という田の神様を迎える儀式を撮った写真がある。じいちゃんさまはむかしながらの装束をつけて威厳をもって立っている。トラクターで田んぼを耕したり、ばあちゃんと梅干しを干しているショットもある。大晦日に神棚の掃除をしている写真もいい。そんな農家の日常をうかがわせるスナップショットとともに、じいちゃんさまのどっしりと落ち着きのある、しかもユーモアと好奇心にあふれた、それゆえに家族に深く慕われ愛されているとわかる写真が入っている。

なにも特別なことがない。だが、「特別なことがない」暮らしをするほど難しいことはないのがいまの時代である。前世代の暮らしぶりは往々にして否定される。家族のひとりひとりが自分の人生を主張し、人間関係を負担に感じ、共同体を避ける。社会構造的にも共同体を維持する必然性はほとんど見いだせないのだ。

この家族にも小さな諍いやもめごとはあるだろう。だが、危機的な状況になる前に解消され、穏やかな日常がもどることだろう。小さな幸せと小さな不幸とのあいだを行きつ戻りつする暮らしである。じいちゃんさまがその単調さを支えている。家長としての権威ではなく、その人間的な魅力が家族をつなぎとめているのだ。

前作の『男子』は、写真学校で学ぶために大阪に出てきた梅佳代が、近所の公園で知り合った男子グループを撮ったものだった。彼女のために奇矯で滑稽なしぐさをしてみせる少年たちの写真には、小さな共同体における人と人の信頼と慈しみの関係が写っていた。今回『じいちゃんさま』を見て、彼女の太くて確かな人間力がこの屋根の下で育まれたのを知った。からだの奥深くに刻まれた記憶なのだった。

これらの写真は、ドラマチックなことがない代りに存在をゆるがす不安もない、シンプルでまっとうな暮らしが産みおとした果実である。それゆえに見る者の心に、たしかなものに触れた歓びが滴り落ちる。心に傷を負ったり、人に不信を抱いたり、実存をおびやかされたり、精神不安に陥ったりする者が増えている世の中に、こんなにも堂々と写真のど真ん中を行く写真家が出てきたのは奇跡のようだ。原始人のパワーが炸裂している。


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