書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』宮下規久朗(光文社)

食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む

→紀伊國屋書店で購入

ロンドンのウォレスコレクションやアムステルダムの市立博物館など、小規模ではあるが好ましいコレクションを持つ美術館を訪れたとき、先ず圧倒され、ついで辟易とさせられるのは、そのおびただしい風景画と静物画コレクションの質量であろう。中でもフランドルは同分野のエキスパートであって(スペイン語ではBodegon「飲食に関連のある場所で、食材や調理器具や、庶民的な人物が描かれている絵画」>プラド美術館展カタログ)、本書でも取り上げている、魚や果物や肉などの食べ物を描いた絵画群は、その細密さと隣り合わせのグロテスクさにおいて、「絵画は美しいもの」という通念をも懐疑してしまうほどだが、ちょっとした場所で食事をしたひととなれば理解するとおり、絵画と食事空間はいまも非常に密接なつながりを持っている。

美術が好きな人に食通は多い。ロンドンでの外食は、スターターとメインのツーコースだけでもディナーなら2時間はかかる大仕事であって、足早な観光客にはこの時間が耐えられまい。これほど観光客であふれている街だというのに、昼夜問わず、レストランに日本人観光客を見ることは少ない。皆どこで食事しているのだろう。ルカ書にある「あなたたちの間では、一番偉いのものが一番若輩のように、支配するものが給仕をするものになれ」(22.24-30)のマナーを地でいっている人物がホストを努める席でご相伴に預かったら、時間をかけた食事を共に過ごした充実感と思い出に満たされるというものだ。

本書で取り上げられているカラヴァジョの絵は確かに迫真迫る傑作である。人を殺したことがある人物が描きうる黒味の深さ。救世主がいくら勧めようが、このテーブルにつこうとするものはいないだろう。本書は、レオナルドから(中略)セザンヌ、ウォホールへつながっていく流れが出色であるが、昔、慶応大学・巽孝之教授の講義の教室にひょんに座っていたことがあって、教授が「アメリカ小説を読むためには輸入食品の缶詰ラベルを読め」と言っていたことを思い出してしまった。

誰であれ、食事を共にする時間はかけがえのないものだ。メニューが運ばれ、スターターに何を食べるか、メインは何にするかを考え、話し合い、その上でワインを選んで、パンをかじりながら、最初の一皿が来るのを待つ。食べることについて書くのは難しい。至福の時間を過ごすこうした場所には、極上とまではいかなくとも、思い出に残る絵画作品がそばにある筈だ。食べることは、単なる食事ではないのだから。

(林 茂)

→紀伊國屋書店で購入