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『エレファントム』ライアル・ワトソン(木楽舎)

エレファントム

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「科学と非科学のはざまを駆け抜ける」

ライアル・ワトソンと聞くと、遠い昔のように感じるのは、80年代に一世を風靡した後、パタリと名前を聞かなくなったからだろうか。一種の流行現象のような印象があったので、この本を目にしたとき、長く顔を合わせていなかった人に再会したような気がした。

ところが、「再会」したのもつかの間、プロフィールを見て彼が2008年に他界していたのを知った。最近、死後しばらくたって訃報に気づくことが多い。享年69歳で、まだ亡くなるような歳ではなかった。

一周忌に当たる6月25日に本書は刊行され、それに合わせて紀伊国屋サザンシアターでトークショーも行われた。「科学と非科学のあいだ」と題して、本書の共訳者のひとりである福岡伸一と、精神医学者の斉藤環が対談した。

斉藤が朝日新聞の書評で福岡の近著『動的平衡』を取り上げ、福岡がワトソンを翻訳することに疑問を投げかけたのをきっかけに、この顔合せが生まれたようだ。つまり流れとしてはワトソン派と非ワトソン派の対決! 斉藤の鋭い突っ込みを、福岡がユーモラスに受け流し、会場をわかせた。

家に帰って読みかけだった本を読了し、思わず考えこんでしまった。トークのなかで斉藤は本書の「まゆつば」的なところをいくつか挙げた。それらに留意しつつ、ブレーキをかけながら読んだにもかかわらず、惹かれるものがあったのだ。それはいったい何なのかと思わずにいられなかった。

『エレファントム』は象に関するワトソンの個人的な記憶を軸に、生物学的知見や歴史的事実を語ったもので、最後の2冊の著作のうちの1冊である(もうひとつの『思考する豚』も近く翻訳出版されるらしい)。科学論文ではなく、エッセイのスタイルをとっているところは、これまでの著作と同じだが、晩年になって象のことを綴ったのを興味深く思った。

ワトソンは南アフリカ生まれで、ヨーロッパ育ちの白人とは学校教育は似ていても、幼少期の体験が大きくちがったはずである。本書の冒頭には、10歳から13歳の男の子が親から離れて1ヶ月間、自活生活する話が出てくるが、これなどはアフリカでなければ考えられないことだ。必要なものを自分たちの手で捕まえる狩猟採集民の暮らしをたどったこの体験からは、ワトソンの思考の本質が、どのように形作られたかを想像することができる。

キャンプ中に見た白い象の話、ブッシュマンの男との出会いなどは感動的なエピソードだし、象の鼻の動きや落ち着きあるしぐさを描写したところなどは、明日にでも象に会いに動物園に飛んで行きたくなるような親密感をそそる。

マンモスの時代から巨大な耳と長い鼻をそなえ、いまもその奇妙な容姿のまま生きつづけている象の不思議さに、ワトソンの心は深くとらえられているようだ。これを書いたとき彼は63歳だったが、人生に限りがあることを実感せずにいられない年齢になって、遠い祖先を思うような気持ちが膨らんでいったのではないか、とそんな想像をしてしまうほど、慈しみにあふれた筆致なのである。だが、その「思いの深さ」ゆえについ筆が上滑りになる面もあり、それが「科学的でない」と指摘される所以なのだろうとも感じた。

たとえば斉藤が批判したしたことのひとつに、「絵を描く象」の話がある。動物園の象が鼻で小石をつかんで自発的にコンクリートの床をひっかいて絵を描いた。これはシリというアジア象だが、ほかにもいくつかの例を紹介し、象の能力の高さを讃えている。

「絵を描く」という行為にはさまざまなレベルがあり、目が見えて物を認識できるようになった人間の赤ん坊にクレヨンを与えれば、何か描こうとするだろう。それと同じような意味で何かを描こうした象がいたとしても、不思議はない。すべての象がそうするわけではないが、描く象もいるということだ。それは物をつかめる鼻をもっているゆえの試みであり、その鼻は必ずしも生存の目的だけに使われるわけではないのである。

話は飛ぶが、うちでスナネズミを飼っていたことがある。つがいにして増やしたので、1匹だけではわからない個体差を確認できたが(その結果は『きみのいる生活』に書いた)、そのなかに一匹、カラーボックスに入ってそこに並んでいるカセットテープを下に落とすのに凝ったのがいた。両手で突き落とすと、ガチャンと音がする。その感触に惹かれたらしい。みんながやるわけではなく、オッチャンと呼んでいた彼だけが、その「遊び」に熱中したのである。

スナネズミに「自意識」や「感情」があるかと尋ねたら、多くの人が「ない」と答えるだろう。だが実際に一緒に暮らしてみて、彼らの「感情」を感じる場面は多かったし、「生存本能」では説明のつかない行動をとることもよくあった。

「自我」「感情」「認識」というような言葉は、人間が人間の振る舞いを差し示すために考えた出したものである。生き物の事情はそれぞれに異なるから、そうした「人間用」の概念を安易に当てはめてしまうと、逆に人間の価値世界に閉じこめてしまうことになる。慎重でなければならないが、「人間用」の概念を絶対化するあまり、生き物に意識などあるはずがないと断定してしまうと、これもまた同じ危険に陥るように思う。

生き物にもたしかに「感情」があり、「意識」がある。「自意識過剰」なタイプと、そうでないのがいる。これは数年にわたってスナネズミを観察した私の実感だった。つまり彼らだって、生きていくのに必要なことのみを行っているのではない。何かおもしろいことを探していて、おもしろいと思えばつづけるし、一見意味のない行為にも固執するのである。いや、その行為だって深く探れば意味があるのかもしれない。人間が「無意味な遊び」をしてストレスを発散させるようなことを、ほかの生き物がしないという保証はないのだから。

タイの草原から連れてこられたシリが、促されたわけではないのに描いたことについてワトソンは、「まったく独自に、芸術というものを発見したらしい」と書く。こういう表現が「まゆつば」と見られるところかもしれない。「芸術」という言葉を使ったことで、逆に人間の側に引き寄せてしまっている。ここで確認すべきことは、ほかの生き物にも何かが「描けてしまった」とき、それをおもしろいと思ってつづけることがあるということだ。「芸術的である」とか、「表現意識がある」というような言葉で、それらの行為を回収する必要はない。

トークのなかで「科学とは何だと思いますか」と斉藤に問われて、福岡は「ことばだと思う」と答え、斉藤も同感だと述べた。このふたりのやりとりを聞いて、雲間から光が差し込むように頭の中のもやもやが晴れていった。この世には不思議なことや、解けない謎がたくさんある。それらが「科学的に解明される」とはどういうことかというと、概念化して名付けること、すなわち「ことばに置き換えること」なのである。

さらに言えばその「ことば」とは、過去の研究の積み重ねによって出来てきた、現時点での成果であり、まだ認知されてない未来に対しては機能しない。そしてその認知作業をおこなうのは言うまでもなく人間だ。つまり「科学的言語」に留まるかぎり、人間の思考と認識のパターンを抜け出ることは出来ないのである。

それならば、人間以外の生き物の行動を科学的に考察するにはどうするかというと、数で攻める。たくさんの個体を調べてそこに共通するパターンを導き出すのだ。数値化と計量化と図式化が「科学」の基本なのだ。

ワトソンがヨハネスブルク動物園でデライラに出会ったくだりは、本書でもっとも心を打つ箇所である。デライラは親を虐殺されて孤児となった3歳の雌象で、ふたりは互いに「一目惚れ」し、すぐに気持ちを通わせるようになった。新しい象舎が完成してデライラをそこに移そうとしたところ、部屋の一隅をじっと見つめたまま動かなくなってしまう。やがて鼻で干し草を運んできてそこを隠してしまった。飼育係によれば、前にいた象が病気になって射殺されたのがその場所だった。

「絵を描く」ところとならんで斉藤が疑問視したのが、この「埋葬」の話である。象が仲間の死を覆い隠したり、骨を分散させていたりする例を挙げ、ワトソンは以下のように書くのだが、このあたりの表現が行きすぎに感じられるのかもしれない。

「(埋葬の)行為には思いやりのようなものも含まれているように思える。死を悼む気持ちにとても近いものだ。象は仲間の死に出会うと、厳粛な態度になる。黙り込み、ふるまいを正し、大切な儀式をおこなっているような様子を見せる。別れの儀式、だろうか?」

これは彼の感じたことであって、証明不可能だ。思い入れでしかない、とも言える。感想は横に置いて事実だけを並べてもいいのだが、つい筆がつつと走ってしまう。そこにワトソンのワトソンたる所以があるように思えた。

禁欲できない人、気持ちが先へ、先へと動いてしまう人、過去よりも未来に軸足を置きたい人! 人間を超えようとする願望の強い人!! 

こんな人物像が浮かんでくる。「科学者」でいつづけるのは、体質的に合わない人だったのかもしれない。「科学」と「非科学」のはざまに落っこちた人、飛躍に快感を感じて駆け抜けた人だった。もしかしたらそれは、南アフリカの濃密な自然のなかで、人間以外の生き物の気配を全身に感じつつ育った幼少期に運命づけられたものだったのかもしれない。


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