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『技術への問い』M.ハイデッガー(平凡社)

技術への問い

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「技術と科学の本質」

 「技術への問い」は、ハイデガーが戦後の思想的な世界に復帰するきっかけとなった重要な講演の記録である。戦争責任を問われていたハイデガーが、一九五一年にやっと教職への復帰を認められた後、一九五三年にこの論文の基礎となった講演によって大きな成功を収めたのだった。

 ハイデガーが技術の問題を選んだことは、きわめて戦略的な選択だったに違いない。広島と長崎の惨禍が露出させた現代技術の問題は、ハイデガーにとっては、哲学的な思索をアクテュアルな問題と結びつけるための重要な手掛かりになると同時に、戦勝国の戦争責任を問うという意味ももっていたはずからである。ナチスの桂冠法学者として戦争責任を問われていたカール・シュミットが同じように、広島と長崎の原爆投下を、アメリカの戦争責任として問う姿勢を示していたことが思い出される。

 ハイデガーの戦略とは別に、第二次世界大戦終結とともに、技術の問いが哲学の問いとして突出してきたのは、たしかなことだろう。理論的な知としての自然科学と比較して、技術は科学的な知の応用であると考えられることが多い。自然科学的な知識は、真理を探求するものであり目的であるが、技術はそれを利用する手段にすぎないと考えがちである。

 しかしハイデガーは技術というものを、たんに科学的な知識に基づいて、人間が世界を自分のために作り替えていくことという意味では解釈しない。それは二つの意味においてである。一つは、人間が自然科学という「真理」を開拓してゆこうとしたのは、技術的な必要性に基づいていたからではないかと考えるからである。「自然科学が技術の基礎なのではなく、現代技術のほうが現代科学を支える根本動向なのである」(p.166)。技術が道具的な目的として科学にしたがうのではなく、科学が技術の目的の「はしため」であるかもしれないのだ。

 もう一つは、人間の欲望にしたがうものは、科学ではなく技術だということである。ハイデガーは人間の欲望はそもそも抑えることができない性質のものであることを指摘する。人間は不可能なものを意志するからだ。「蜜蜂の一群は彼らにとって〈可能なもの〉のうちに住んでいる」。ただ人間の意志だけが、こうした〈可能なもの〉の領域に安住していることを拒むのである。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとって〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる(p.145-146)。

 そしてこれはもはや押しとどめることができない。「現代技術の際限のない支配がなにものにも制止できなくなっている」(p.167)ことは、ぼくたちも認めざるをえない。というのは、人間は技術によって可能であると考え始めたことを、諦めることができないもののようだからである。だとすると、この先に待ち受けているものの恐ろしさは、ぼくたちの想像を絶するものかもしれない。

 しかしハイデガーは同時に、こうした危険が生まれるときに、そこに「救い」の可能性も生まれるのではないかと示唆する。ヘルダーリンの詩は「しかし危険のあるところ、/救うものもまた育つ」(p.46)と語るからだ。それでは人間の欲望を制御することのできるものは何か、「大地の恵みを受領し、そしてこの受領の掟にしたがって、存在の秘密を見守り、〈可能なもの〉の犯しがたさを見張るために、故郷に住み慣れる」(p.146)ことを可能にするものはなにか。ハイデガーがそこに秘めたメッセージは明らかだろう。

 本書はこの「技術への問い」を冒頭に、技術論に関連した文章「科学と省察」「形而上学の超克」「伝承された言語と技術的な言語」「芸術の由来と思索の使命」の合計五本の文章を編集して翻訳したものである。周到な訳注とともに、読みやすい翻訳でハイデガーの技術についての思考の現場に立ち会わせてくれる。

【書誌情報】

■技術への問い

■M.ハイデッガー/著

■関口浩/訳

平凡社

■2009/9

■262p

■ISBN 9784582702286

■定価 2800円

●目次

技術への問い-一九五三年-

科学と省察-一九五三年-

形而上学の超克-一九三六-四六年-

伝承された言語と技術的な言語-一九六二年-

芸術の由来と思索の使命-一九六七年-


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