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『通話』ロベルト・ボラーニョ(白水社)

通話

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失うもののない人生の「落後者」が放つ聖性

ロベルト・ボラーニョという作家を、この本ではじめて知った。本邦初訳だし、知らない作家はこの世にたくさんいるものだが、彼の場合は「こういう作家がいるとは知らなかった」と言ってみたい気持ちがある。読んだことで自分のなかで何かが変ったような気配がある。収められた14本の短編の生々しい触感がからだに残っており、作家が作品を超えて自分の人生に入り込んでくるという、めったにない現象が起きたのを感じるのだ。

「センシニ」はスペインに亡命中のルイス・アントニオ・センシニというアルゼンチン作家の話である。語り手の「僕」は二十代の駆け出しの作家。ある文学賞に応募して三位になったが、その二位の座にいたのがセンシニで、作品のファンだったので親しみを覚えて連絡をとる。センシニがさまざまな文学賞に応募してその賞金で食べているのがわかる。文学賞の公募を見つけたら教えてほしいと頼まれ、「僕」は新聞のはじに小さく出ているような地方都市の文学賞の告知を探し出しては、センシニに送るようになる。

センシニは本当はブエノスアイレスで暮らして執筆したいと思っているが、家族とともにスペインに留まり、家族が寝静まったあとの食卓で書いて応募している。「賞を追いかけてスペインの地図上を散歩しているようなものですね」と彼は書く。「もう六十歳になりますが、二十五歳の若者のような気分です」。それを読んで「僕」は悲しく感じるが、やがて「ある種の活力、ユーモアの精神にとてもよく似た活力、記憶とてもよく似たユーモアの精神を取りもどしたような気分」になるのだった。

センシニには、事件に巻き込まれて行方不明になっている新聞記者の息子がいる。物語の後半では彼の遺体と思われるものが発見され、帰りたくても帰れない祖国の政治状況や、センシニの過去の重さなどが暗示されるが、筆致は軽妙で乾いている。「ユーモアの精神にとてもよく似た活力、記憶とてもよく似たユーモアの精神」という先の言葉は、そのままボラーニョの文体を言い当てているかのようだ。

エンリケマルティン」という作品に登場するのは、ある意味でセンシニとは正反対の男だ。エンリケは詩人希望で、そのために粘り強く努力しているが、書かれたものはいつもだれだれ風で独創性がない。センシニの作品にある独自の声がエンリケには欠けている。センシニは食べるために書き、エンリケは自己証明のために書くが、出てくる結果は皮肉にも逆なのだ。しかしボラーニョはふたりをそのようにとらえはしない。労働者のように書くこと。書くことに執着すること。社会に対して武装し自己に没入するさまに尊さを感じている。

エンリケは自己破滅にむかう。その過程を作家である「僕」の視点で書いていく。世間的には「三流詩人」と言われる男の迷路のような心の内側が浮き彫りにされてゆく。「僕」はエンリケを哀れみも、うとんじもしない。その詩をいいと思ったことはないが、「いくつかを覚えている」と書く。「それを思い出すときには、自分自身の青春を振り返るときにも似た気持ちになる」とも。恐れるものを持たない人間の聖性が詩の存在とあいまって、不思議な光を放っている作品だ。

ボラーニョが実際に親交を持っていたのではないかと思わせるような人物が、どの作品にも登場する。それほどまでに登場人物たちの実在感は強く、共通した特徴がある。その特徴をどう表現したらいいのだろうと思いつつ、「センシニ」を読み返していたら、これだという言葉に行き当たった。

センシニの書いた小説について「僕」が語っている言葉である。「武装し、運に見放され、孤独というか一風変った人付き合いの感覚を持つ人物の物語だ」。ボラーニョの登場人物から感じるのはこれなのだ。不遇で、にっちもさっちも行かない人生なのに、人と関わり、何かを訴えようとするその切実さが、どの人物からもあふれでているのである。

小説臭さのない、どちらかというとエッセイ風のさらりとした文章だ。その気取りのない文体に好感をもって読みはじめたが、読み終えてみると観察眼の鋭さ、人間への構えの大きさ、細部の組立の巧緻さなど、ただ者でないのを実感した。だれの作品にも似ていない。ユニークさを主張しないユニークさがあり、読み返すごとに新しい発見が与えられる。

これを機にボラーニョの作品がもっと翻訳され、読めるようになるとうれしいが、ボラーニョ自身はもう新作を書くことは叶わない。2003年にまだ五十歳という若さで他界してしまった。この事実もまたボラーニョへの思いを特別なものにした。

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