『真夜中のセロリの茎』片岡義男(左右社)
「抽出したエキスを具体的な光景に構成する」
片岡義男の小説が話題になることがまわりで増えている。わたしは最近読むようになったにわか読者だが、前回はエッセイ集『ことばを生きる』を取り上げたので、今回はかねてから宿題である小説について考えてみたい。
片岡の小説がほかのだれにも似ていないというのは、だれもが思うことだ。エンターテイメント系・純文学という区分けは当てはまらないし、翻訳小説のようだと形容しても何の説明にもならない。ことばと小説の関係させ方に独自のスタイルがある。いったいどのように独特なのか。
短編7本が入っている。どれも再会の物語である。かつて知っていた友人や恋人や同僚に、偶然に、あるいは意志をもって会う。そのときの状況や引き起こされる出来事が、男の側から描かれていく。
再会する相手は女性である。ほかの小説に登場する女性と同様に、みなスタイルのよい颯爽とした美女で、「あんな女なんていないよ」と男性読者が不服を言いそうなほど完璧だ。ここで確認すべきなのは、そういう女性が現実にいるかどうかという視点では書かれていないということだ。女たちは、女性性のエキスを抽出して固めた存在として登場する。エキスの抽出は女性の描写ばかりでなく、小説の端々に認められる。片岡にとって小説を書くことは、エキスを抽出し、構成することだ、とも言えるかもしれない。そのためか、抽象絵画のような、直線的が交錯するモンドリアンの絵を目の当たりにしているような印象がある。
以下は、「かき氷で酔ってみろ」に出てくる、ラジオ局につとめる木島という男が、おなじ局内の赤坂という若い女性に街でばったり会ったときの会話だ。
「赤坂は独身だったけな」
「そうですよ」
「俺も。歳はいくつだ」
「二十八」
「ちょうど俺の半分じゃねえか。この俺をまんなかから半分に切ると、どっちも二十八だよ」
赤坂は笑った。
「どっちがいい?」
「どういう意味ですか?」
「この俺をまん中からふたつに切って、上半身と下半身、どっちも二十八歳だ、どっちがいいか、という話さ」
体をまっぷたつに切るというたとえがもつ直線的な味わい。だが、抽象化なのとおなじくらい具体的な印象も強い。具体物がひんぱんに登場し、動作の描写も具体的で細かい。モンドリアンの絵にスーパーリアリズムの手法で日用品が描こまれているような感じを受ける。
「片手に真夏のジャケットを握るように持ち、地下鉄を降りて改札へと上がり、改札を出てかれは地下をのびる通路を歩き、そのいきどまりで隣接している建物の地下一階に入った。エスカレーターで地上の一階へ、そして三階までエスカレーターの上を歩いた。この建物はぜんたいが書店だ。フロアごとに分野が分れていた。洋書売り場のある三階で彼はエスカレーターを降りた」
これは「三種類の桃のデザート」の冒頭だが、短い文章のなかにエスカレーターが三度繰り返され、「エスカレーターの上を歩いた」と表現されているのに注目しよう。「エスカレーターに乗った」では立ったまま乗っているように感じられるから、「上を歩いた」と表現して移動するステップを上がったことを印象づけているわけだ。
具体物のイメージと体の動きを読者の意識に埋め込む一方で、会話は余計なものを削ぎ落とし、ことばのあやとりのようなものにする。虚構性が強いのにファンタジーのにおいがしないのは、紙の上に置かれたひとつのことばが、次のことばと手を結んで世界を構築していく気配が濃厚だからだろう。ほかならぬことばのつながりによってできあがるのが小説である、ということをありありと実感させるに充分だ。ことばの背後を当てにしないから、積み上げたものが崩れればなにもない更地となる。それゆえに蜃気楼を見ているような感覚もある。
再会が語られるが、失われた時間を追憶することがテーマではないことも特徴だ。「駐車場で捨てた男」では親友の男ふたりが、バイクでツーリングの最中に台風に見舞われ、知り合いの女友達が所有する空き家になっている別荘に退避する。食べ物はコンビーフ缶とパスタがあるのみ。コンビーフをまるごと缶からとりだし、その厚みの真ん中からまっぷたつに切り、フライパンで炒めるというのが、最後のシーンだ。「引っくり返すのはいいけれど、崩さない」。「パスタと和えたりするな」。このことばにもう一方の男は「言っている意味はよくわかる」と返す。
どの作品でも、登場人物たちは過去を引きあいにだすが、崩したり、かき混ぜたりしない。一方の峰からもういっぽうを睥睨したり、過去を現在から切断して懐古の対象にはしない。対等な視線で両方から抽出したものが等記号で結ばれていく。
「駐車場で捨てた男」のはじまりのシーンでは、張り出した軒が突風や強風をまっぷたつに切り裂き、上半分が屋根のスロープに反転し、下半分は窓ガラスが受け止める。最後ではそれがふたつに割られたコンビーフの屹立感と重なる。メタ小説的な性格があることも含めて、7編のなかでもっとも片岡ワールドを象徴している作品かもしれない。