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『ロシアとサンボ――国家権力に魅入られた格闘技秘史』和良コウイチ(普遊舎)

『ロシアとサンボ――国家権力に魅入られた格闘技秘史』 →紀伊國屋書店で購入

「サンボの通史であり、国家と格闘技をめぐる優れた論考」


 本書は、ロシアで生まれ謎のベールに覆われた格闘技・サンボについて、その成り立ちに始まり、柔術・柔道との関係、メディア言説、国家体制や軍隊との関係、技術論などまで広くカバーした、まさしく労作と呼ぶにふさわしい書である。本書がサンボに関する必読書であることは間違いないが、同時に、サンボに限らずスポーツ史、スポーツ社会学、格闘技論などの諸ジャンルに影響を持つものともなるであろう。

 本書を手にして目次を見たとき、わき出る興奮が抑えられなかった。それは謎に包まれ、虚実入り混じった言説ばかりが目立つサンボにかかわる、興味深い事柄や名詞が挙げられていることもあるが、「あとがき」を読み終えて明らかになるように著者が私財を投じて現地に赴き、文献収集や調査に明け暮れた情熱が伝わってくるからである。

 まず、旧ソ連時代に創られた物語を解体するところから始まる。実はサンボを創設したのは英雄ハルランピエフではなく、スターリン時代に「日本のスパイ」であるとして粛清されたオシェプコフという人であったという。オシェプコフは諜報員でありながら講道館で柔道を学び、その後、モスクワに戻って警察学校で護身術から白兵戦に至るすべてのプログラムを統括することになる。

 サンボは「柔道を真似てつくったもの」「これといって見るべきものがない」といったことがよく言われるが、このような出自はサンボがその初源から(恐らく最も)実戦を想定した格闘技であったことを物語っている。その結果、柔道の階級制が取り払われたり胴着を掴む行為が許され、独自の進化を遂げていくのである。だが、1937年日本とソ連の関係が悪化するなかで、オシェプコフは日本との関係が疑われて連れさられ、獄死する。四十四歳だった。

 創始者でありながら、「国家の敵」とされ悲劇に覆われたオシェプコフとは対照的に、現代でもその名を称えられているのがスピリドノフとハルランピエフである。スピリドノフのサンボはオシェプコフ以上に実戦に即したものであり、その後のコンバットサンボ(別称、コマンドサンボ。軍隊で採用されている実戦用サンボ)へと通じる。1990年代、前田日明が率いたリングスで活躍したアンドレイ・コピロフやヴォルク・ハンらの源流であろうか。

 そしてその後、通説ではサンボの創始者とされるハルランピエフが、スターリンの下、サンボなかにある柔道・柔術色を排除し国技としてサンボを確立していく。ちなみに彼はそれを「自分がつくった新しい格闘技」としている。

 ここまでを一気に参照してみるだけで、サンボと柔道の関係、さらにはソ連の国家体制との関係や相克が鮮明に見えて興味深いが、第5章「廣瀬中佐起源のミステリー/ファンタジー」がなお異彩を放っている。後に軍神と崇め奉られた広瀬については虚実入り混じった言説があるが、島田謹二の「ロシヤにおける広瀬武夫」に始まり、新聞・雑誌その他の言説を読み込んでその言説的な構築過程を軽やかな筆致で描いている。

 冒頭の繰り返しになるが、資料的価値も高くスポーツ史、スポーツ社会学において意味ある一冊であることに間違いない。

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