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プロの読み手による書評ブログ

『たった一人の30年戦争』小野田寛郎(東京新聞)

たった一人の30年戦争

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「小野田元少尉の野生」

 


 刀の切っ先がこちら側に向けられたかのような恐怖心を覚えることが何度かあった。そのとき私は、本書の筆者に対して曰く言い難い違和感を持たざるを得なかった。だから安易な共鳴を与えられるような書物では決してない。にもかかわらず、もう一人の私はそこに強く惹きつけられてしまう。戦場での戦いを合理的な知性と冷静な行動力によって生き延びた男の物語。ここには私たちが切り捨ててしまった人間の野獣的知性のようなものが生き生きと肯定的に描かれている。危険だ。何しろ彼は「敗戦」という報道を知りながら、それを正しい情報と分析できなかったのだから、決定的に間違っていた。だが、私は彼の魅力をどうしても否定することができない。

 本書は、第二次世界大戦の敗戦後も29年間にわたって、フィリピンのルバング島で数人の部下を率いてゲリラ戦を展開し続け、1974年にようやく直属上司の停戦命令を受けて帰国した小野田寛郎元少尉が、その29年間の島での戦争生活を中心に、それ以前の生い立ちや入隊や、帰国後のブラジルでの牧場経営や日本での自然塾の運営にまでいたる、自分の人生全般について書いた(語りおろした?)書物である。帰国直後の1974年に出した『わがルバング島の30年戦争』も類書としてあるが、その後の30年以上のブラジルでの成功(山の稜線を見て井戸水のありかを当てる野生的知性のすごさ)の重みも含めて考えるために、1995年に出された本書のほうを薦める。

 しかし読んで驚くことばかりだった。私は小野田さん帰国のニュースの衝撃をはっきりと記憶しているし、小野田元少尉が陸軍中野学校出身であることやフィリピン人を殺害している可能性も確かに知ってはいた。にもかかわらず私はそのことの意味を正面から考えようとしたことがなかった。ただ彼は日本の軍国主義の犠牲者なのだと思い込んでいた。だが例えば、彼の出た陸軍中野学校は自由な校風を持っていて、「たとえ国賊の汚名を着ても、生き延びて任務を遂行せよ」と教えたという。これは「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に見られる玉砕の美学とは明らかに正反対の思想だろう。だから小野田さんは、ふつうの日本兵のように潔く玉砕せずに、みっともなくとも生き延びてゲリラ戦を戦い続けようとした。つまり、そこには歴史のアイロニーがあったのだ。

 それに私たちは何となく彼がジャングルに長年隠れて出てこられなかったのではないかと考える。ところが彼は29年間にわたって、自分が敵に発見されないように住んでいる痕跡を消しては3、4日ごとに移動して暮らし続けたという。そしてときに自分の存在を誇示して島民を怯えさせる陽動作戦として収穫期に陸稲に火を放って、警察と交戦を繰り返した。そうやって積極的に戦いながら日本軍の反撃をひたすら待っていたのだ。米軍が朝鮮戦争ベトナム戦争のために出撃を繰り返したことも、また彼のそうした勘違いを助け続けた。しかしこの勘違いを除けば、彼の戦場で戦うための意思の強さと知性の豊かさには感心するしかない。銃弾が自分に向かって来るのが見えたから身体をそらせて助かっただとか、毎日自分の便の量や硬さによって健康管理をしただとか、木の葉の擦れる音で生き物か風かを区別できただとか、その野生振りに唸らされてしまう。

 ただしそのような野生の知性に対して私は共鳴だけでなく、違和感も感じたということが大事だろう。本書ではないが、戸井十月が2005年のインタビューで(『小野田寛郎の終わらない戦い』新潮社)、戦後フィリピンの警察軍との撃ち合いで誰かを殺してしまったことを後悔していないかと尋ねたとき、小野田さんは「ない」と言下に否定している。「男が男を殺すのは昔からお互い様なんでしょうね」と。これが私の違和感の源泉だろう。帰国直後の会見でも、仲間の兵士が死んだから出てくる心境になったのですかと記者から問われたときに、激昂した様子で、二十七年間一緒に戦ってきた戦友が目の前で殺されたら、その悔しさで復讐心が強くなるのが自然ではないでしょうか、と言っていたのが印象に残った(195頁)。戦争で戦っていることを前提とした立場と、平和が正しいことを前提とした立場がこれほど鮮明に分かれた会話はないだろう。むろん私もまたこの記者と同じ立場にいる。しかし小野田さんの話を完全に否定することもできない。

 『俘虜記』の大岡昇平は、小野田さんが暮らしたルバング島と海峡を挟んだ向かいのミンドロ島昭和19年夏に補充兵として派遣された。小野田さんと1972年まで行動を共にして殺された小塚金七元一等兵は、大岡と同じ独立歩兵第三五九大隊に所属して同じ船に乗って戦地に送られてきたという因縁があった。だから大岡は戦後繰り返し、このルバング島の残存兵問題について発言している(『証言その時々』や『ミンドロ島ふたたび』で読むことができる)。大岡昇平の戦争観は、小野田さんとは対照的に、殺すことへの「疾しさ」に尽きるだろう。

 小野田さんがルバング島に配置された昭和20年1月、米軍はミンドロ島上陸を開始し、大岡は仲間とはぐれてジャングルを徘徊することになり、そのとき米兵を撃ち殺すチャンスが訪れたが、なぜか撃てなかったということを『俘虜記』に書いている。良心の呵責のためだろう。戦後ミンドロ島を訪問した『ミンドロ島ふたたび』を読んでも、日本軍による過去の虐殺や暴行に対する良心の呵責が全体のトーンを占めている(戦友たちを慰霊したい気持ちで行くのだが、フィリピン人への疾しさでそれが大っぴらにできないのだ)。実際、こうした戦争による殺人行為への良心の呵責が戦後日本社会を形作ってきた倫理と言ってもよい。小野田さんはそれと抵触する、「殺される前に殺せ」という戦場の倫理を持って1974年に現れた。だからこそ恐ろしかった。

 この書評ブログの2009年6月19日で取り上げたように、坪内祐三は『ストリートワイズ』のなかで、この大岡昇平に欺瞞を感じて批判している。本当は彼が米兵を撃てなかったのは、良心からではなく、一人を撃っても別の米兵に自分が撃たれるという恐怖心からだったのではないかというのだ。戦場のことは平和の論理ではなく、戦場の倫理で語れ。ただし、自分が弱虫だったということを素直に認めよというわけだ。私が同意できるのは、こうした立場かもしれない。私は、撃ち殺したことは戦場でのことだったのだから何の疾しさも感じないという小野田さんの強者の言葉にやはり同意することはできない。だが、戦場で殺しあうとはそういうことであるという真実を、彼の言葉は突き付けてくる。人類は歴史のほとんどをそのように殺しあってきたのだという事実を私は認めるしかない。

 だが言葉を「書く」という行為は、そのような戦場の論理とは違う論理でできているのだろう。小野田さんの弱肉強食の論理を否定できるような、優しい言葉を私は書きたいと思う。ただ私が弱いということの自覚のためにも、小野田さんのような強者の言葉を私は単純に否定したくない。それを切り捨てることもまた言葉を使って勝とうとする別の戦場の論理のように思えてしまうからだ。人間が動物的存在であることを頭で否定するような、バランスを欠いた振る舞いであるように思うからだ。ただ私は言葉のジャングルを彷徨っているうちに、小野田少尉と遭遇し、銃を突きつけられたかのように思って怖かった。ここにそう正直に記しておきたかった。


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