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『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健&コリーヌ・カンタン訳(紀伊國屋書店)

資本主義に徳はあるか

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「経済と倫理のあいだ」


                小須田健(中央大学ほか講師=訳者)


 最近では、店頭まで行かなくともインターネットで商品が購入できる。たいがい品物は宅配便でくる。近年急成長のこのサービスは質の向上が著しい。配送日時指定やクール便はいまやあたりまえだが、このきめこまやかさは、日本の過密な道路事情次第ではおおきなリスクともなる。じっさい先日、午前着のクール便で頼んだワインが一向にとどかなかった。業を煮やして問い合わせても、先方も事情が把握できていない。確認して連絡しなおすと言いながら、なしのつぶてである。おそらく先方では、運送なり所在確認に尽力していたとは思うが、この時点でこちらが求めていた「いつ届くか」の情報は最後まで得られなかった。私がその不誠実な対応に腹をたてていると、 家人はそれは担当者以前に企業内部のシステムの問題ではないかと言う。会社勤めをしている彼女は企業内部の組織の欠陥に眼が向き、一消費者にすぎない私は窓口の担当者の人間的対応が気になる。この二面性はそのまま『資本主義に徳はあるか』の指摘につながる。

 『資本主義に徳はあるか』は、フランスでは広く名を知られる現代の哲学者・モラリストであるアンドレ・コント= スポンヴィルの著作である。縁あって私は、本国で彼の名を一躍知らしめることになった『ささやかながら、徳について』(一九九九年、以下すべて紀伊國屋書店)にはじまり、『愛の哲学、孤独の哲学』(二〇〇〇年)、『哲学はこんなふうに』(二〇〇二年)、『幸福は絶望のうえに』(二〇〇四年)を経て、今回の『資本主義に徳はあるか』で五冊目になるその翻訳のすべてに携わっている。

 基本的に彼の思想は、処女作『絶望と至福についての試論』(未訳)以来一貫している。その要は、絶望することが真の幸福への入り口だという考えである。なぜ絶望が幸福につうじるのか。それは、希望するとはいまの自分に欠けるものが未来に実現されることを願う行為だが、この欠けるものに眼が奪われると、いまの現実をありのままに認めるという、生きるうえで肝心な作業が滞りかねないからである。生きるとはつねにいまを生きることであって、希望にすがることはしばしば現実逃避にしかならない。

 

 『資本主義に徳はあるか』では、これまでになかった方面へ踏みこんだ議論がられる。倫理にかかわる最近流行のトピックスに「企業倫理」がある。ライブドア問題に象徴されるように、このところビジネスがらみの事件・問題が頻出している。それを、ビジネスに携わる人びとのモラル=倫理意識の欠如という観点から糾そうというのがその狙いである。これは一見もっともに思われるが、コント= スポンヴィルに言わせれば根本的な誤解をはらんでいる。

 ビジネスすなわち商取引は資本主義経済下で合法的に認められている営為である。個人の自由な利潤追求を容認する資本主義社会で、各人が自分の利害からいとなむ行為が経済活動である。しかるに倫理の本領は、利害を離れた観点からなされる点にある。商人が適正な価格で商うのは道徳心の発露ではなく、あこぎな商売をすると顧客を失い捕まる危険が高いという計算にもとづく。だからといって私たちは彼を責めはしない。その商品が必要なもので適正な価格なら私たちは買う。そこには倫理をもちだす余地はない。企業は法や常識に違反しないかぎりでより効率的な利潤追求をめざしてかまわないのである。

 冒頭の話にもどるなら、組織としての企業はつねにより効率的なシステムの構築をめざせば良いのだし、その一方で企業内の個々人にはその立場に応じた誠実さが求められる。ポイントは、この二つを混同しないことである。まずはさまざまな秩序を区別して、問題を整理することが肝要である。と、ここまで紹介したのは本書で展開されている啓発的な議論のごく一部にすぎない。

 こうしたコント= スポンヴィルの議論は、私たちが生きていくうえで看過できない基本的な問いについて最低限の指針を与えるものだと言ってよい。だからこそ、専門的に見るならその議論にしばしば性急さや論証の不十分さが見られようとも、彼の著作は世代や職種を問わず読まれているのだろう。私には、『ソフィーの世界』以来の哲学入門の試みのひとつの到達点がコント= スポンヴィルだと思えてならないのだがどうであろうか。

 さきにシステムとしての資本主義に倫理は無縁だと述べたが、だからといって企業が倫理と無縁なわけではない。その好例がさきのノーベル平和賞の受賞者ムハマド・ユヌス氏の活動である。氏が総裁を務めるグラミン銀行は、一九八三年以来バングラデシュの農村で女性たちに無担保融資をつづけてきた。これまで六六〇万人(九七%が女性)に総額五〇億ドルを貸しつけ、九八%が返済されているという実績からして、この銀行が資本主義の論理にのっとって運営されていることは言うまでもない。その一方で、ノーベル平和賞受賞という事実が示すように、そのベースにある理念ないし倫理観のすばらしさも言うまでもない。

*「scripta」第2号(2006年12月)より転載

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