『自己評価メソッド――自分とうまくつきあうための心理学』クリストフ・アンドレ著/高野優訳(紀伊國屋書店)
「我々の問題としての「自己評価」」
中村うさぎ(作家)
フランスで十数万部も売れたベストセラーとは、いかなる本であろうか? 翻訳タイトルは『自己評価メソッド』……そうか、「自己評価」か。それならば、現代日本人の抱える問題と無縁ではない。いや、むしろ我々の問題は、ほとんどこの「自己評価」の問題である、と断言してもよいくらいだ。
今年の夏、秋葉原の交差点に二十五歳の青年がトラックで突っ込み、通行人を無差別にナイフで殺傷した。世間を震撼させた、いわゆる「秋葉原通り魔事件」である。事件後、容疑者がネットに連綿と綴っていた独白が公表され、話題を呼んだ。「非モテ」「負け組」といった自嘲的なセルフイメージの描写から滲み出る、彼の極端な「自己評価」の低さが痛々しく印象に残った。
そう、我々の抱える心の問題のほとんどは、「自分自身を許せない」という点にある。「秋葉原通り魔事件」の彼が、たとえ社会的に成功して「勝ち組」の立場を獲得できていたとしても、彼が自分に満足して幸福に暮らせていたかというと、必ずしもそうではなかろう。きっと彼は、己の成功に不安を感じ、日々、何かに脅え、居場所の無さに戦々恐々としながら生きる羽目になっていたに違いない。今の俺は本当の俺じゃない、今の居場所は本来の居場所じゃないと焦燥の念を募らせ、狂騒的な浪費やアルコールに溺れて破滅していく彼の姿を、私は容易に想像できるのである。
何故なら、彼の問題は、私自身の問題でもあるのだから。私もまた、「私には価値がない。価値ある何者かにならねばならぬ」という心の声に追い立てられ、強迫的な「自分探し」の罠にハマって、破滅的な愚行を繰り返す人生を送ってきた人間だからだ。社会的な成功者という評価を渇望してブランド物を買い漁ってみたり、男から愛されることに固執してホストクラブに通い詰めてみたり、果ては美容整形にデリヘルと、「自己確認」のための迷走こそが私の半生であった。
このような人間を、本書の著者は「自己評価の低い人間」あるいは「自己評価が高くてもろい人間」と評する。自分の力を信じられないから、何を獲得しても不安で、もっともっと価値ある自分にならなければ、と、己を無謀に駆り立てる。他人の評価を信じられないから、たとえ褒められても居心地が悪く、本心から忠告してくれる人の言葉にも耳を貸さない。かと思えば、他人の批判にたやすく傷つき、攻撃的な態度に出たり、自分の殻に閉じこもったりする。もしも正しい「自己評価」さえできるようになれば、このような人々はちゃんと幸福になることができるのに、と。
そのとおりである。しかしまぁ、それは我々とて、薄々ながらもわかっているのだ。問題は、その「正しい自己評価」というものをどのように獲得すればいいのか、まったく見当がつかない、という点だ。「ありのままの自分を受け入れろ」だって? それができないから、我々はこんなに苦しんでいるのではないか! 「自分を許せ」だって? それが簡単にできたら、誰もこんな地獄にはハマってないよ!
こうした疑問に対しても、著者はひとつひとつ、丁寧に答えていく。「ありのままの自分を受け入れる」とは、どういうことなのか。「自分を許す」ために、どのような訓練をしていけばいいのか。我々は結局のところ、何によって「自己確認」をすれば、「正しい自己評価」に到達して、心穏やかに生きていけるのか。それは「存在を認められ、愛されること」だ、と、彼は言う。我々が我々自身を「価値あるもの」と評価できるのは、社会的成功でもなく、富でも権力でもなく、周囲の人間の「承認」と「愛」なのだ、と。ちょっと引用してみよう。
「人から存在を認められたい」というのは、「称賛されたい」とか「愛されたい」という気持ちとはちがう。
そのふたつに先立つものである。(中略)これがないと私たちの生活は知らないうちに、少しずつ、静かにむしばまれていく。
この文章に、私は、あの「秋葉原通り魔事件」の容疑者を思い出した。誰からもレスをつけられなくなっても、事件直前までずっと独り言のように書き込みを続けていた、彼の殺伐とした孤独。そして、狂ったように買い物やホストにハマりながらも、自分は誰からも求められていないという想いに苦しみ続けた、かつての自分のことも。
もし「秋葉原通り魔事件」の容疑者が本書を読んでいたら、彼は救われていただろうか? もしも私がずっと以前にこの本に出会っていたら、私は数多の過ちを犯さずに生きていただろうか? それは、誰にもわからない。ただ、フランスで十数万人に読まれたこの本が、日本の片隅で窒息しながら生きている人々を救う手立てとなるかもしれない、という希望は否定できないだろう。
世界は静かにむしばまれている。そして、人は密やかに病み続けている。この時代にこの本が刊行されることには、きっと意味があるはずだ。
*「scripta」第10号(2008年12月)より転載