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『アウトサイダー・アートの世界――東と西のアール・ブリュット』はたよしこ編著(紀伊國屋書店)

アウトサイダー・アートの世界――東と西のアール・ブリュット

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「感性と知性のボーダレス」

                 港千尋(写真家・多摩美術大学教授)


 ブリュットというフランス語は、ふつう「自然のままの」「もとのままの」を意味する。たとえば原石、原油や粗糖など、原材料を指すいっぽう、総量、粗利益や総生産など、何も引かない状態の総計という意味でも使われる。第二次大戦後まもなく、フランスの画家ジャン・デュビュッフェは、自らが中心となって集めた作品群を「アール・ブリュット」と呼んだ。作者たちは当時誰ひとりとして、芸術家とは見なされない人物たちだった。そこには「社会生活に不適応」と扱われて孤独な生活を余儀なくされたり、精神病院や監獄といった施設に隔離された人々が含まれていたからであり、彼らの表現はそれがどれほど独創的なものであっても、発表の場所をもつことはなかった。デュビュッフェの呼称が、二〇世紀初めの西欧芸術が世界各地に再発見した「プリミティヴ」な芸術や「シュルレアル」な美学の後だったことは、それから半世紀以上たった今でも意味深い。

 本書はスイス・ローザンヌにある「アール・ブリュット」と日本の「アウトサイダー・アート」の両コレクションによる展覧会に際して出版されたものであり、この驚くべき創造の世界について知るための最良のガイドブックである。まずは図版のページをゆっくりとめくることをお勧めしたい。不思議な顔が、どこか懐かしい風景が、余白を埋めてゆく無数の文字の群れが、わたしたちを未知の大陸へと招いている。どの作品もいちど目にしたら忘れることの難しい、非常に強い個性にあふれるまぎれもない美術作品であるが、それにもかかわらず、わたしたちが知る美術史のいかなる流派にも回収できそうにない。そこに共通しているのは、ほとばしる創造のエネルギーであり、それ以外の何物をも必要としてはいない。理論的な評価も市場での値段も必要としていない、真に独立した表現行為である。

 無為で独立しているということは、これらの作品の強さであると同時に弱点でもある。冒頭に登場する画家アロイーズに始まり、現代日本の作家にいたるまで、生み出された作品が社会に知られる以前に、その大半が廃棄される例は少なくない。ローザンヌのコレクションに衝撃を受けて以来、日本のアール・ブリュットを探索してきた編著者のはたよしこさんは、次のように書いている。

 「……現場ではあわや破棄される寸前という作品に遭遇することもある。そのたびに、すぐれた作品の収集と保存がひとつの価値観を形成し、継承されてゆくことの大切さを痛感する。」

 これはかつて人類学者が博物館をつくるときに感じたことと似ているように見えるが、ある難しさを抱えている。これらの作品は「民族」や「時代」に属しているのとは異なり、まして「団体」や「運動」の流れを汲んでいるわけでもなく、徹底して個人に始まり個人に帰っている。そこに何らかの「主義」を持ち込むと、そのこと自体が作品の生命力を失わせかねない。

 「それにはどんな形態が望ましいのか。私たちは本腰を入れて考えなければならない時期が来ていると思う。それは、福祉分野だ、美術分野だ、と分けて考えるようなことではないのではないか。」

 おそらくデュビュッフェも同じように悩んだであろう。これらの作品に心を揺さぶられるわたしたちもまた、同じ問いを共有せざるをえない。本書に収録されているはたよしこさんによるスイス・ドイツ・オーストリアにおけるアール・ブリュットをめぐる旅や、都築響一さんによる日本のアーティストたちのアトリエ探訪は、作品そのものの秘密だけでなく、彼らの力を社会が共有するために必要なことを考えるための、貴重な報告となっている。

 

 収められている二十人あまりのアーティストの作品に唸り、プロフィールを読み返しながら、創造と自由意思について考え込んでしまう。一歩手前で作品に立ち戻ろうとしても、今度は知性の問題が出てくる。「アウトサイダー」という呼称は必然的に何らかの「境界」を前提としているが、そのひとつは知性についてのものだろう。そこで「知的障害」という言葉が出てくるわけだが、作品とプロフィールを前にすると、誰もが創造行為における「知性」とは何なのかと問い直さざるをえない。

 わたしたちの時代の科学技術先導型で効率至上主義の文明が招いた危機のひとつが、感性と知性の断絶にあることは、ここで繰り返すまでもないだろう。もし、これらのアーティストたちが、何らかの理由でこの断絶を核にもっているような社会に「適合できない」としたら。わたしには彼らの作品群が、別のやり方で感性と知性の再結合を果たそうとしているように見えてくる。どの作品も、それぞれのやり方で、問いを発している。この深い断絶について、つまり文明が負っている障害について、社会はどう対応しているだろうか。同時に、これらの芸術は、それを解くための鍵が、人間の心のなかにまだ隠されているのではないかと、そっと教えているように思う。ブリュットという言葉は、それを暗示している。心の自然について、心の総体について、わたしたちが知らないことはまだまだ多い。そのためにも、できるかぎり作品を継承しなければならないのである。

*「scripta」第9号(2008年9月)より転載

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