『ノアーレ 野荒れ』野坂昭如/言葉 荒木経惟/写真 黒田征太郎/画(講談社)
未来や過去や現在のすべての14歳に贈りたい
庭に出した椅子に下駄履きで腰掛け、口を真一文字にしてサングラスの奥からこちらをキィと見つめる男。足もとには、蚊取り線香。左手に杖をつき、立ちあがる。足もとにはやはり、蚊取り線香。下駄を脱いで和室にあがる。革張りの椅子に腰掛けて、手もとにはバランタイン——。
シャツを替え、場所を替え。17枚のモノクロの、一人の老齢の男の写真。間違い探しを強いられているかのように表情はわずかに変わるだけだが、この緊張感と和らぎ、というよりやさしさはなんだろう。野坂昭如。5年前に脳梗塞で倒れ、以来、画廊を経営しシャンソン歌手でもある妻の暘子さんとともにリハビリを続けている。「多少自虐的になるのも無理はありませんが、一緒になって落ち込んだりはしません。『治りたいの? 治りたくないの?』と聞いたら、小声で『治りたい』。じゃあリハビリ、リハビリ。二人三脚の毎日です。」読売新聞に、暘子さんはそう書いていた(2006.4.6)。
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2007年6月、野坂さんの自宅を、黒田征太郎さんが5年ぶりに訪れる。「最悪のシーン」も考えたというが、顔を見てとたんに「そろそろ、ノサカさんのイマを発表しませんか?」と問う。即快諾、まもなく、荒木経惟さんと再び訪れることになる。
昭和40年代はじめ、新聞社の紹介で初めて野坂さんに会った黒田さんは、門下生のように慕うようになる。野坂さんの『戦争童話集』をできるだけたくさんの人に読んで欲しいと、絵や映像をつけて公開した「忘れてはイケナイ物語り」プロジェクトをはじめ、同・童話集の沖縄篇として『ウミガメと少年』(絵・黒田征太郎)を新たに書くきっかけを作ったり、移住先で体験した「9.11」のあとには、「忘れてはイケナイ物語り」のひとつとして「PIKADON(ピカドン)」プロジェクトも立ち上げた。黒田さんの活動は常に、野坂さんと一緒にあったといえるだろう。
そんな黒田さんが求めた「ノサカさんのイマ」は、まずアラーキーによる写真、それに、撮影現場で思わず描いていたという黒田征太郎の絵が加わり、デザインの井上嗣也がアラーキーにタイトル文字を依頼し、そして最後に野坂昭如の言葉を待って、「右へ左へ、タテ、ヨコへ、ギリギリで一冊が出来」たと黒田さんは書く。そんな経緯を知らなければ、はじめから用意周到に準備された本に思える。だがこういう清冽さは「準備」からは生まれえないものにも思え、わざわざその経緯をここに記すのは、黒田さんがその役割を自らに課してのことと感じられる。
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有名人の、熱い友情本である。なりたちはそうだしまた帯にあるように、「野坂さんのように戦闘中の人々」への励ましが第一義かもしれない。だがそういうことよりもむしろ、世の中のすべての14歳を懐にするあまりにやさしい本である。なかほどにあらわれたこの「言葉」にある少年を思い出して、涙が出た。14歳、彼は今、苦しみを抱えている。
逢いたいと思う人
十四歳の昭如少年
励ましてやりたい
野坂さんの14歳は、神戸の空襲で養父を失い、妹を失い、ひとりになって、大人になったときである。比べるものではないけれど、ひとそれぞれに、それぞれの、苦しみがある。
ノサカもクロダもアラーキーもきっと知らない彼に、この本を贈りたいと思った。年寄りの写真に落書きみたいな絵がついた薄っぺらな本に呆れて彼は「いらない」と言うだろう。私は待ってましたとばかりにこの本を開いて、そしてこの「言葉」を読むのだ。「逢いたいと思う人/十四歳の昭如少年/励ましてやりたい」
思いつくすべての未来や過去や現在の14歳に、この本を贈りたい。