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『燈火節』片山廣子(月曜社)

燈火節

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「生のメカニズムを観察する眼」

片山廣子と聞いても知らない人がほとんどではないかと思う。私も本書の元になった『燈火節』が出る数年前までそのひとりだった。そのとき、大部な本をひもとき、こんな作家がいたのかと驚かされた。

今回の新編は、その中からおもだった随筆作品を選びだし、旧字旧かなづかいに戻して編み直したものである。読み返してみてやっぱりおもしろい人だと思った。いや、おもしろいでは足りない。実に得がたい人だと感じた。

1978年に生まれだから与謝野晶子と同じ生年だが、彼女のように闘う人ではない。21歳で大蔵省の役人と結婚して一男一女をもうけ、家庭人の道を踏み外さぬようにしながら短歌を詠み、エッセイや小説を書き、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳をした。

こう書くと堅実すぎて地味な人物に思えるかもしれないが、作品から受ける印象はまったく逆である。さっぱりして、味わい深く、自己憐憫とは無縁に物事の変化や自分の内と外との関わりをとらえている。まるで内部に精工な機械が埋め込まれているような曇りのない観察眼だ。

「赤とピンクの世界」は、近所の独り暮しのおばあさんが急にいなくなり、一カ月後にどこかの井戸から水死体となって発見された話だ。自分で飛び込んだとしか考えられない。息子夫婦のところに泊りに行ったり、むこうが訪ねてきたりで、はた目には楽しく静かな何不自由のない暮しに見えたが、「もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらう」と片山は書き、貧乏には貧乏なりの楽しさがあるものだと説く。

ここまでは結構、ありきたりな展開である。だが、最後の400字分のところで凝縮された転と結が訪れる。この話を聞いたある人から、あなたは本当の貧乏の味を知らない、赤貧洗うがごとしという貧乏加減を知っていたらそんなことは言えない、と諭される。

そこで彼女は考える。なるほど彼の言うことは正しい、自分の知っているのは赤ではなくピンクくらいの貧乏だ、苦しいのはたしかだが、死のうという気にはならない。そこまでになるほど、自分は欲も得もすっかり忘れきれないと。

生きる力は欲と得から湧く。それを浄化してしまっては人の生命は絶える。本能的に生きている生き物との差はそこにあり、人の感じる幸不幸も実は欲望を源泉にしていることを、この文章は気付かせる。情緒に傾くのでもなく、モラルで収めるのでもない。人を生かしているメカニズムを冷静に見つめる自然誌的な視線とも言える。

40代以降の片山はたくさんの死に接しているような印象がある。42歳のときに夫が他界し、67歳で今度は長男を失い、つづいて弟や妹が自分より先に逝った。彼女はまた芥川龍之介堀辰雄らと親交があり、芥川は「或阿呆の一生」で「才力の上にも格闘できる女」と書き、堀は彼女をヒントにして「聖家族」や「物語の女」を著したと言われているが、はるかに年若いふたりですら、彼女よりはやく死んでいる。

片山の厳格な自己認識はそんなこととも関係していたのかもしれない。だがその一方で、生来的に情熱を遠ざける資質を持っていた人のようにも思うのである。心の水盤が斜めになると、水が流れ出す前に気付いて平らにもどそうとする。そうした敏感な心の働きが随所にうかがえる。

このことから、「情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する」(『魂の錬金術』)というエリック・フォファーの言葉を思い出した。もしかしたら、彼と近い感覚の人だったのかもしれない。どの年齢を生きていようと、どの時代を通過していようと、精神の均衡を求めるメカニズムを作動させ、その静寂の中で聞こえる小さな声を信頼した。

「赤とピンクの世界」は「死ぬといふことは悪いことではない。人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪いことではない。生きてゐることをたのしんでゐれば」という文で締めくくられる。一見なげやりに見える言葉の中に真実が光っている。途方に暮れたとき、一篇か二篇を読むだけで水盤の水が平らになり、生きる力が湧く。手ごろな価格の新編によって、彼女の文章を必要とする人に届くのはうれしいことだ。


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