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『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 』高瀬毅 (平凡社 )

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

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「消えたことで残された、記憶をつなぐ鎖」

1955年に長崎で生まれた著者・高瀬毅さんが、母親の実家を訪ねる時に乗ったバスから見ていつも感じていた「静かな気持ちのいい場所」。まぶしい光に包まれた坂道の途中にあった大きな建物は浦上天主堂で、通ったカトリック系の高校もこの近くにあったという。

大学進学で上京して以来、遠い想い出となっていた浦上に引き戻されるきっかけになったのは、テレビのドキュメンタリー番組『神と原爆』(2000年 長崎放送)。原爆で廃墟となった天主堂は保存の動きもありながら59年に同じ場所に再建され、著者が見ていたのはもちろん再建後の建物である。自分が生まれた時には存在していた廃墟の天主堂の写真をその番組で見て「何か大きな、大切なものを失ってしまったのではないか。そういう取り返しのつかない喪失感」にとらわれ、廃墟のまま残していたら「原爆について考える大きなきっかけを与えるものになっていた」のではないか、なぜ広島の原爆ドームのように残さなかったのか、との疑問を抱えて始めた取材の記録だ。

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著者はまず番組で見た写真をてがかりとする。撮影したのは原爆投下時長崎市役所の職員であった池松経興氏で、撮りためた写真を保管していた市役所の議会事務局が58年に火災にあい、他の需要書類とともに消失したことを知る。直前に天主堂の廃墟取り壊し作業が始まっていたこと、さらに同氏が、詳しくは語らなかったが取り壊しに関する巨額の寄付金があったと話していたことも聞く。

当時の市長・田川務氏の天主堂に対する意向が保存から撤去に変わったのは、56年に米国セントポール市から姉妹都市提携を持ち掛けられて1カ月にわたる米国視察から帰った後のことだ。市議会は全会一致で保存を求めたが、教会側が跡地での再建を決めたことも重なって撤去となる。著者は、人望も厚かった田川氏の生い立ちを追いながら、だからこそ不可解な豹変ぶりの理由をこの渡米に探す。

日米間姉妹都市提携の第1号で、資料から「非常に大がかりな『招待』」を感じたと著者は記す。また、55〜56年に天主堂再建資金の寄付を募るために渡米していた山口愛次郎司教は、姉妹都市提携を後押しとしてセントポールを訪ねた折に「爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」という発言をしていたことを新聞に認める。ここでも著者は浦上出身の山口氏の生い立ちを追い、原爆を "浦上五番崩れ" と呼ぶ浦上に暮らす信徒の歴史に触れながら、それでもなおこれほどのことに対する決定権を持った本人の記録がないことに、「信者ではない私にはいま一つ呑み込めないこと」と言い切る。それは永井隆氏の言葉、「原爆は神の摂理」に対する思いにも等しいだろう。

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永井氏の言葉が、その後ソ連の脅威に対する米国やヴァチカンの戦略にしたたかに組み込まれたように、市長である田川氏と山口司教の言動も米国に取り込まれてゆく。62年、「TIME」誌のインタビューに田川氏は、広島は過去の不幸を宣伝しているが長崎は八月九日の面影を感じさせる物はほとんどなく、原爆反対のデモ隊も訪れない国際的都市となった、と応える。同氏の訪米に関与していたであろう米国広報文化交流庁(USIA)の思惑にあまりに近しい。

USIAとは、人々の交流や文化的な関係を通して米国に対する関心を高め、結果的に米国の安全保障に寄与させていく政策(パブリック・ディプロマシー)実現のための機関、とある。子どものころ無邪気にアメリカに憧れていた著者自身も生きた日本における「あの時代」が、直接ではなくても間違いなくその延長上にあることに改めて思いいたるとき、廃墟となった天主堂が消えたことで原爆を考える物理的なアイコンは失ったが、むしろこの本で消えた過程の一端を知ったことは、私にとってこのあとも常に "今" につなげて考えるきっかけをもらったと感じる。我が身に寄せた記憶にすることができないと、どんな悲劇も語り継ぐことはむずかしい。この本は、そのための大きな鎖を示していると思う。

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