『技術への問い』M.ハイデッガー(平凡社)
「テクノロジーの本質を問う」
この書評欄で取り上げるのは専門分野にあまり近くない書籍のほうがよさそうだと思っていたが、さっそく第二回から、自分の仕事に直近の新刊を紹介することになった。これはもう声を大にして言い立てるしかない、イチ押しの本が現われた。傑出したテクスト「技術への問い」の新訳を収めたハイデガー技術論精選集である。
「ハイデッガーが『というのは、問うことは思索の敬虔さなのだから』という、いまや有名になった文章でこの講演を締めくくったとき、満場の人びとから嵐のような歓呼の声が上った」(244頁)。1953年の講演「技術への問い」が聴衆にいかに熱狂的に支持されたかを、訳者後記はこう印象深く伝えている。ハイデガーというと、山小屋で思索に耽る哲人というイメージを抱く人もいるだろうが、それはほんの一面にすぎない。というよりそのイメージ自体、付加価値然と市場で流通してきたというのが実態である。ハイデガーほど公的注目を集めることに――人騒がせなほど――秀でていた講壇哲学者も珍しい。
第一次世界大戦後に「実存」、つまり人の生き死にを哲学的テーマに据えたことが、『存在と時間』の成功の一因であった。その目利きのよさは、第二次世界大戦後にも遺憾なく発揮された。二発の原子爆弾の炸裂が、終わりでなく始まりを劃することになった時代に、「技術」を哲学の中心問題を立てたことは、この哲学者が自分の属する時代とともに考えるスタイルを貫いたことを物語る。それでいて半世紀以上経ってもなお、その思索は少しも古びていない。「技術への問い」は、どんな新刊書よりも新鮮である。
アクチュアルなトピックに飛びつく凡百の論者とちがうハイデガーのすごさは、現代の問題を哲学の原初へと結びつけて掘り下げる手腕のたしかさにある。「技術への問い」は、ギリシア語の「テクネー」へと遡り、テクニックの語源であるこの語が、生産のための手段知ではなく、学知(エピステーメー)その他と並んで真相をあばくはたらき(アレーテウエイン)の一種を意味していたことに、思い至らせる。存在者を現出させる制作(ポイエーシス)を導くテクネーは、「真理が生起する領域」で本質を発揮するものだった。
では、現代技術はどのような「真相をあばくはたらき」なのか。これが問題である。ハイデガーは、「挑発」という言葉を使って、テクノロジーの本質を射当てようとする。現代技術は、自然を「挑発」して、そのエネルギーを引き渡すよう、しつこく迫る。たとえば、農業はいまや、かつてのように大地での作物の成長を見守ることではなく、土壌をけしかけ、そそのかし、煽り立てて吐き出させ、まんまとむしりとる、機械化された食品工業である。この場合、人間は、地上の主人であるどころか、人的資源として現代技術に使い回される要員にすぎない。人間もまた「挑発」されるのである。
自然と人間の一切を挑発する現代技術の本質を、ハイデガーは「集-立(ゲ-シュテル)」と呼ぶ。それは、物的、人的な資源をかり立て、かき集め、ひっきりなしに回転させては、自己増殖を遂げる「巨大-収奪機構」――故渡邊二郎の苦心の訳語――である。ヒトとモノを総動員する総力戦の時代をくぐり抜けてきた哲学者なりの「全体主義の時代経験」がベースになっていると見られるので、私は以前べつなテクスト(『ブレーメン講演とフライブルク講演』)の翻訳で、「総かり立て体制」という訳語を、あえて用いてみた。「ゲシュテルング」と言えば、「徴兵に応じること・応召」である。読者は、「集-立」の語にそういった物々しい含意がひそんでいることを念頭に置くとよいだろう。
20世紀に恐るべき躍進を遂げたテクノロジーの本質を問うて、ハイデガーはその「挑発」の一大システムを、「集-立」と命名した。言葉遣いは奇異だが、言っていることはよく分かる。早くもフランシス・ベーコンは、技術をひっさげて自然に介入・干渉してその秘密をあばき出す作為的攻略法に、近代知の動向を見定めた(村田純一の近著『技術の哲学』岩波書店、を参照)。自然を苦しめ悩ますこのおせっかいは、「拷問」に比されてもいた。あるいは、ハイデガーの言う「集-立」を、マルクスのかの「資本」になぞらえてもよかろう。グローバルに膨張し続ける「巨大-収奪機構」のもとで、いつしか人類は、地球という資源をごっそりむしりとるべく雇われた「派遣労働者」と化しているのである。
現代を見舞うこの「命運」に、ではわれわれは、どう対処すればよいのか。そこからの脱却はいかにして可能か。ハイデガーの思索は、残念ながら応用倫理でも臨床哲学でもないから、この種の問いに答えてはくれない。テクノロジーの本質を問うことは、その深みをチラッと覗き込んでは戦慄に襲われて鳥肌が立つことくらいしか効能がない。とはいえ、べつの小講演でハイデガーが引用している荘子の「無用の木」にあるように(153頁)、「役に立たないからといって、なんの悩むことがありましょうか」。「その木のまわりを気ままに廻ってみたり、木蔭でゆっくり居眠りできる」だけで、十分ではないか。いやひょっとすると、そういうしぶとい呑気さこそ、「集-立」への抵抗拠点ではあるまいか。
清新な翻訳の登場により、テクノロジー論の古典が現代日本の一般読者に提供されるようになったのは、じつに喜ばしい。「技術への問い」のほかに、これまで翻訳では近づきがたかった重要論文二篇と、本邦初訳の二つの小品を加えた、充実の一冊。「集-立」を形象化したかのような装幀もみごとである。