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『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』森岡督行 (ビー・エヌ・エヌ新社)

BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌

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「"日本の対外宣伝グラフ誌"の、美しい宣伝グラフ誌」

タイトルにある1931年から1972年は満州事変から札幌オリンピックに重なる。東京・茅場町古書店を営む森岡督行さんが、この間に刊行された"日本の対外宣伝グラフ誌"から106点を選んで、時代の流れに対応させながらそれぞれの表紙と中ページの写真を載せてコメントを添えた。

"対外宣伝グラフ誌"と聞けば、日本工房の『NIPPON』(1934-1944)や東方社の『FRONT』(1942-1945)など戦時下に国策で編まれた雑誌ばかりが頭に浮かぶが、鉄道省国際局発行の観光案内や、国の主要輸出品としての羊毛、真珠、自転車、ミシンなどの業界団体が作るカタログ、今では版元の所在がわからないが不思議な国ニッポンを伝えた雑誌まである。戦前、国際観光局で対外宣伝を担当していた井上万寿蔵が残した言葉、「露骨な外交工作や政治宣伝がなんらの効果をもたらさぬ場合でも、婉曲な観光宣伝だけは大手をふって外国にはいっていけるのである。そこに観光事業の弾力性があるのであり、いかなる時局にもめげぬ強みがあるのである」をひいて、〈このことは、観光宣伝に限らず、輸出商品カタログ、博覧会カタログ、オリンピック案内の類にも通じると考えました〉として、"対外宣伝グラフ誌"という言葉に弾力性を与えた。「対外」に、そのつど美しい印刷物で「宣伝」された日本のさまざまな側面が、弾力性を持って本誌から浮かび上がってくる。

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コメントには、制作者についての端的な紹介もある。『戦争のグラフィズム』『焼跡のグラフィズム』などの著書で『FRONT』と東方社について明らかにした多川精一さん(1923-)は『FRONT』で原弘(1903-1986)の助手を若くしてつとめていたし、『ファーブル昆虫記』などの細密画で知られる熊田千佳慕(1911-2009)は『折本・日本 NIPPON』(1938)のデザインをしていたことなどが記される。『FRONT』で中心となっていた原弘、木村伊兵衛(1901-1974)をはじめ制作に携わっていた人の多くが戦後も仕事を続け、グラフィックや写真の世界を牽引してきた。戦前戦中の対外宣伝物は特別な誰かが作っていたわけではなく、グラフィックデザイナーや写真家としてのそれぞれの人生が、その時代に重なったのだった。宣伝せんとする日本のありかたが大きく変わり、復興と成長を伝え、記録することになっても、美しい印刷物のために変わらぬ情熱が注がれた。本書に並ぶ美しいグラフ誌をながめていると、なぜかそうしたことに思いが強く移っていく。



『戦争のグラフィズム』にあった木村伊兵衛の逸話を思い出す。東方社の写真部長だった木村は1942年、薄い紙に刷られた米国国家宣伝雑誌を手にして「いや参った。負けたな」と大声で言う。ロシアの『USSR』を範として重厚な作りで邁進していた『FRONT』誌が、その重さが災いして輸送に支障をきたしていた時分に、米国では既に航空輸送を想定した薄く軽い紙、しかも両面印刷に耐える紙が開発されていたことを思い知った瞬間だった。戦地になくても、宣伝という持ち場での戦いがあった。それぞれが、吹きっさらしの最前線を生きていた。

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あとがきに、〈木村伊兵衛はたとえ請負仕事でも、自作のサインのようにして「手」をイメージにおとしこんでいたように思う〉と書いている。本書には、表紙カバーを含めて3カ所に「手」が写されている。古書店を営む著者にとって、古今東西の書物のページをめくる「手」というのは自家発電のタイムマシンのようなものでもあろう。その「手」を自著にまとわせ世に問うというのは、木村伊兵衛に包み込まれた者であると告白したようなものではないか。カバーにある冊子の写真を改めて見ると、告白の歓びと恥じらいを唇にたたえた微笑が、浮かび上がってくるようだ。



木村伊兵衛のみならず先人への敬意と美への信頼に満ちた『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』は、"日本の対外宣伝グラフ誌"の、美しい宣伝グラフ誌なのだと思う。

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