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『マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』ポーコック,ジョン・G.A.(名古屋大学出版会)

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統

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良い行為もしくは正しい行為は、たとえ、それが神と人間に知られることなく、隠されたままだとしても、良い行為、正しい行為であるだろうか?(ハンナ・アレント「政治の季節」筑摩書房


再びマキャヴェベリが静かなブームである。どうにも不安な世情であって、このとびきりの姦計家の言葉(傭兵信ずることなかれ)はたしかに身につまされる。しかし主著「君主論」はどこまでも虎穴における虎子のべからず集であって、凡人がここに何かを求めるのはお門違いというものだ。

。。。。従ってまさに厳密な意味において行為は<徳>である。世界が不安定化し、予測のつかぬ脅威がたえないとき、行為するー正統の構造に含まれていない何事かをなすーということは運命に形相を与えることであった。攻撃が価値の大部分であった。マキャヴェリが繰り返し<運命>を女性として描写するのはこれがあるのであって、確かにかれも耽っていなくはないとはいえ、エロティックな空想からではないのである。<運命>は力ずくで獲得できるかも知れない。しかしあなたが時間のなかで行動しなければーこれらの語は注意して受け取らなければならないー、彼女はあなたを滅ぼすだろう(159頁)。

いかんとも高尚な文章であって、その言わんとするところを簡潔に示そう。偉人であっても凡人であっても個人の徳(人徳)には限界があり、つまりその肉体性の限られた時間で生み出される徳には「何の意味もない」ということ。しかしそれでは身もふたもないこと。超克するために不死性としての共和国概念を考える人たちが現れること。

不死の救世主を抱く一神教の世界、キリスト教社会の中にあってこの甚だしく倒錯したユートピア像と異端性は隠しおうせない。それでも、シャルルⅧ世率いるフランス軍の到来を間近にしたサヴォナローラは、お家芸の陶酔と熱狂の弁舌を振るいはじめる。

「神は自ら罰するところの者を愛したまう、フィレンツェに神が訪れたまう、フィレンツェは選ばれし国がためなり」

要するに完全に狂っているのだが、サヴォナローラ当人にとっては敵軍の到来さえもが祝福された運命であり、その強烈な情熱が共和国フィレンツェの人心を熱狂に巻き込んだ。人間の自己複数性(plurality)から逃れ得て、自己一元化できる存在は神だけだ(同アレント)。この神権政治家にとって<北から来た王>はまさにダンテのエコーである待望の「神の鉄槌(flagellum Die)」に他ならず、神の予言が~それが良いことであろうと悪いことであろうが、かれにはどうでも良いことだ~成就されることへの倒錯的な興奮に身も心も包まれている。

。。。しかし個人が永遠の現在nunc-stansを知性の行為として主張しようと、あるいは信仰の行為として主張しようと、明らかだったのは、彼はそれを共有できないし、時間におけるある瞬間(moment)は他の瞬間に囚われている知性にとっては知ることができないということである。またそのような知性には究極的な重要性もなかった。。。。。すなわち、永遠は時間の生み出すものと恋に落ちるかもしれないが、しかし、時間の愛は受動的で不活発なのであった。(p.6)

習慣を捨てるのは~それが良いものであろうと悪いものであろうと~難しいものだ。道で先を譲る、婦人のためにドアを開ける、ホスト役に徹する。。。彼地で良しとされることが此地で奇異に映る。別段不思議な話ではないが、つまりは生身の人間であって変えることは容易ではない。何年も前からそうしたことを感じてきた。ホッブス的「万人の恐怖」が存在しない世界~つまりある制限と枠での平等の中~において「公的生活を律する徳とは、世界の中では孤独ではないと感じる喜び」(同アレント)であろうし、自己の複数性から逃れ得ないわれわれにとって、人間間にある中間的空間にだけ自由があるのだ。

(官公庁営業部 林茂)


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