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プロの読み手による書評ブログ

『読まず嫌い』千野帽子(角川書店)

読まず嫌い

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 読み巧者は幼いころから本の虫、と思っていたら、「児童文学に漂う『お子さんには山葵抜いときました』的な感じが気持ち悪くて」小学生時代は漫画以外の本はほとんど読まなかったという著者が小説に目ざめたのは十三歳のとき、きっかけは筒井康隆だった。


 この、ませているのか奥手であるのかわからぬ少年は、いったん読みはじめると「小説には自分が興味を持てない分野がいっぱいあること」と気づく。

 ミステリが嫌い、SFが嫌い、時代小説が嫌い、歴史小説が嫌い、伝奇小説はブームがきたせいで食傷、ファンタジーを読むなら映画のほうがいい、ライトノベルより漫画のほうがいい。さらには純文学、私小説・青春小説・恋愛小説もだめ。「本に人生観を開陳されると、『文学臭が強い』と苦手に思って」しまう。「宮澤賢治太宰治サリンジャー。詩歌なら石川啄木中原中也も、もう全部がアレルゲン」という「筋金入りの読まず嫌い」となった。

 ではこの人はいったいぜんたい何を読んできたのだろうと疑問に思う人もおおいかもしれない。ミステリでもSFでもなく、時代ものでも歴史ものでもなく、伝記でもファンタジーなく、純文学でも私小説でも青春小説でも恋愛小説でもない小説って?

 「本書は、その読まず嫌いの、さまざまな名作小説との和解の記録」だと著者はいうが、別の言い方をすれば、上に列挙した「××小説」や「○○もの」でもない小説とはなにかという問いへの答えでもある。

 フローベールボヴァリー夫人』、ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アベイ』、セルバンテスドン・キホーテ』。この三つの物語は、それぞれの主人公であるエマ・キャサリンドン・キホーテ三者が、恋愛小説・ゴシックロマンス・騎士道物語を読み過ぎたあまり、それらに準ずるしかたでしか世界を眺められない「物語脳」の持ち主であることによって成立した物語である。そのなかでそれぞれの作者たちは、主人公たちが「物語メガネ」をかけていることによってひきおこす破滅や、現実への気づきや、滑稽さを描いたのだ。

 作者たちは通俗恋愛小説・ゴシックロマンス・騎士道物語を単純に軽視ないし敵視していたのだろうか。

 むしろ三人の小説家は、既存ジャンルを愛すればこそ、その引力の強さを認め、引力圏から脱さんと果敢に格闘したのではないか。だって、大なり小なり物語という嘘つきなメガネの厄介にならないと、人間は世界を認識できないのだから。

 とするなら、この三冊の小説は、読書によって読書を超えるという不可能を試みた書物なのだ。つまり、本が「私を疑え」という。

 筒井康隆によって小説に目ざめた十三歳の帽子少年は、夏休み書店で立ち読みした文芸誌『海』掲載の筒井『遠い座敷』に衝撃を受ける。無茶苦茶な台詞に思わず吹きだし、しかし、「作品の雰囲気はむしろクールで謹厳ですらある。」ため不安にもなった。「ここ、ほんとうに笑っていいのだろうか。」

 「笑う用、怖がる用、泣く用、驚く用、うっとりする用、萌える用」といった効能があらかじめ謳われていない、楽しみかたを読み手が決めなければならない、それは「不親切な作品」であり、少年はこうしたタイプの小説が自分に向いているのではないかと思う。

 (……)不親切な作品は、こちらの鑑賞態度をそこまで限定しない。計算なのか天然なのかわからないこともある。作者が曲球を投げてこちらを試したりもする。どこをおもしろがればいいのか、作品ごとにゼロから手探りで、極端なばあいには一文一文探しながら読むことになる。作品が親切に教えてくれない以上、だいじなものを読み落としても、読み落としたこと自体に気づかない。読み落としたとしても、こっちで勝手に別の部分をおもしろがることもできる。勘違いできる。これはつまり自由で、自由というのはほったらかしで不安なものだ。

 「笑える」「怖い」「泣ける」「驚ける」「萌える」「癒される」。自らの嗜好を満足させてくれる、その機能が明白であること。小説の「ジャンル」とはそうしたものである。

 本を読むことのおもしろさに目ざめた著者は、そうしたくくりにはまらない作品を通じて「本を読むことのおもしろさ」を知り、やがてその自分の感覚を過信し、「『本を読むことはおもしろい』はずなのに、それが『おもしろい本がある(おもしろくない本もある』になってしまったとたん」つまり「読まず嫌い」になってしまうと「読書という行為自体が色褪せてしまった」。

 自分が好きなものを読み続けることによって、いわば「消化試合」の様相を呈してくる読書に倦んだときどうすればよいか。「そういうときこそ名作に帰ろう」。

 本書はあまたの「名作」と呼ばれる作品についてだけでなく、「名作」を「名作」たらしめたものは何だったのか、またそれが読者にもとめられ、わすれられ、もはや「読んでおくべきもの」ではなくなった「名作」の栄枯盛衰にも触れられている。

 ウェブ上のミステリ批評に「壁本」=「読後に壁に叩きつけたくなる本」ということばがあるという。

 もしもなにか本を読んで、それが自分の「おもしろいの理想形」から遠かったときに壁にぶつけたくなったとしたら、そのときほんとうに壁にぶつかっているのは、本ではなく、読者である私のほうなのだ。

 壁を作ったのも、読者である私本人。私が脳内の「おもしろいの理想形」にこだわればこだわるほど、四方から壁が迫ってきて、自作の独房のなかで身動きが取れなくなり、ちょっと体を動かしただけでも、本を壁に叩きつけてしまう。

 「おもしろいの壁」の外へ、明るいが自由度の少ない独房をでて、不安な外の暗闇を歩くための指針となるもの、それが「名作」と呼ばれるものだと著者はいう。

 私はなぜ小説を読み、読みたいのか? それが知りたくてまた小説を……。元・読まず嫌いの語る「名作とはなにか」への回答はふたたび、「小説とは?文学とは?」の問いを孕んでゆく。

  

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