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『マンガの描き方』手塚治虫(光文社)

 大学で教壇に立つ者にとって、何とかしたいと思う問題の一つは、生徒の私語をいかに防止するかである。そのための正攻法はもちろん、私語をするより先生の話を聞く方が得だと思わせるだけの充実した内容を講義することであろう。

 しかし、90分の講義時間の間、常に生徒の注意を引きつけ続けることはとてもむつかしい。大事な話をするためには、そこに至る準備の話もしなければならず、どうしても聞くのに忍耐を要する部分も通過しなければならない。

 そんなところで、とぎれそうになる生徒の注意を引きつけるための小道具の一つとして役立つかもしれないと思って、若い頃手に取ったのがこの本である。

 現代では、マンガの書き方を解説した本はたくさんある。でも、そのほとんどがプロの漫画家を志す人を対象にして、劇画風の上手なマンガの描き方を説いている。素人が、ちょっとやってみようという気にはとてもならない。

 ところが、ここで紹介する手塚治虫の本は、それらとは違って、全くマンガなど描いたことがないド素人に対して、漫画の描き方を手ほどきしているのである。たとえば、親が小さな子供にマンガを書いて欲しいとねだられたとき、さらさらと描けたら、その子供から一目置かれるようになるでしょう、というようなノリで解説されている。

 実際、この本に挙げてある絵の例は、どれも一見すると稚拙に見えるようなものばかりである。これならひょっとすると私でも描けるかもしれないと思わせてくれる。はじめてこの本を開くと、マンガの神様といわれる手塚治虫にしては何と幼稚な絵だろうとびっくりするが、これこそが手塚治虫の優しい配慮なのだと思う。

 わたしは、この絵の幼稚さにつられて、自分でも密かに練習してみた。不要になった紙の裏側などを使って、描いては捨て、描いては捨てをしばらく繰り返した。そのうち、何とか、様になる絵がときどきは描けるようになってきた。でも、生徒の前で黒板に描く自信はない。そこでまず試したのが、学会などでの研究発表に使うオーバーヘッドプロジェクターのシートである。これなら、聴衆の見ている前で描くのではなくて、あらかじめ描いておいたものを見せるだけだから、失敗しても書き直すことができる。研究発表というのは厳粛な場で、マンガなどを使うことは不謹慎と思われるかもしれないが、導入部で研究の動機などを話すとことでちょっとだけ使うなら、効果的に聴衆を引きつけることができる。これは自分では気に入っていて、今でも使っている。

 そのうち、ほとんど失敗はなくなり、書き直しをしないでも描けるようになってきた。(もちろん、幼稚な絵にはかわりはないのだが。)そこで、おそるおそる生徒の前で黒板に描いてみた。この効果は大きかった。特に、私語があるときに、私の話を中断し、無言で黒板に向かってマンガを(もちろんその日の講義に関係のある絵であるが)描き始めると、とたんに私語がなくなる。そんなときは、生徒の方をすぐに見たりはしない。生徒の視線を背中に感じながら、ゆっくりゆっくりマンガを描いていく。たっぷり時間を使ってから、生徒の方を振り返り、そのマンガも使いながら講義の続きを行う。これでたいていの私語はなくなる。ときには、私の描いたマンガに拍手が起こることもある。

 とまあ、こんなわけで、この本は、マンガなんか描けそうにないあなたが、ここぞというときに効果的にマンガを描くことのできる特技を密かに身につけたいと思ったら、最適な本である。最後に、手塚治虫の前書きの1節を紹介しておこう。

 「この本は、いわゆる漫画家の卵とか、漫画グループとか、マニアが見ると、きっと物足りなくて全然つまらないだろう。その人たちはもっと専門書を読むチャンスがいくらでもある。あくまでもこの本は手ほどきである。この本1冊で、何百人か、何千人かの、いままで描いたこともなかった人たちが漫画をちょっと描いてみる、それで目的が達せられる本である。」