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『ダ・ヴィンチ 天才の仕事-発明スケッチ32枚を完全復元』 ドメニコ・ロレンツァ、マリオ・タッディ、エドアルド・ザノン[著] 松井貴子[訳] (二見書房)

ダ・ヴィンチ 天才の仕事

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現代アニメの描画法もマニエリスムの末裔と知れた

『十六世紀文化革命』(〈1〉〈2〉)、そして『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』と読み継いで、知識と絵、というかグラフィズムとの関係が、ルネサンス、とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチ[以下レオナルド]の知的営為にとって究極のポイントであることがよくわかった。その場合、絵というのはいわゆる美術絵画でなく、アトランティコ手稿をはじめとする手稿約8,000点の紙面上に溢れるインクやチョークによる厖大なデッサンなのだが、上ニ著とも別にそこに焦点を当てて一意専心という本ではないから、そうしたデッサンの振る舞いがモノカラーの小さい説明図では理解しきれない。そこを完璧に補ってくれるすばらしい一冊が、上ニ著と同じタイミングで邦訳刊行された『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』である。「数あるレオナルド本とは一線を画する内容の広がり」を序文に誇るが、まことにその通りだ。

合計32点の機械デッサンを、飛行機械、武器、水力関係、作業機械、式典演出機械、楽器に大別して紹介していくのだが、ミラノ工科大学で工業デザインを学びコンピュータ・デザイン事務所で仕事をしながら大学でも教えているデザイナー二人が、三次元CG画像にレオナルドの設計図を再現していくというやり方がなんとも斬新で、何度眺めても面白い。

レオナルド・マニアというほどではないがレオナルドにフツーより少しは上というくらいの関心をもつぼくのような人間には、ヴィジュアルで理解するレオナルドといえば、いまだにラディスラオ・レティ編『知られざるレオナルド』(1974)である。八ヶ国共同出版、日本語版は翌年、岩波書店から邦訳。研究としても第一級の水準だが、大型豪華本に溢れる図版が珍しく(多くは手稿)、その説明の仕方、そのための図版構成も、いまなお新鮮。組版は写研と聞いて、さもありなんと思う。当時の値で12,000円は貧書生には痛かったが、モナリザでばかり馴染みのレオナルドとはまるで違う「知られざる」レオナルドの相貌が、衝撃とともに伝わったものである。

アトランティコ手稿紙葉の一枚に自転車そっくりな機械のデッサンがあって流石はレオナルド、という一章が『知られざるレオナルド』にある。大真面目な議論だったが、1969年の編纂の過程でいたずらな現代人が入れた落書きと判明。今ではお笑い種である。

日進月歩ということだ。「壁画<最後の晩餐>の修復」という最近最大の美術史学上の事件については『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』中にもきちんとした報告文があったように、元はどうやら、派手な色を投入した、我々が長年イメージしていた作とは全然違う絵だったらしいのだ。ブルーノ・タウトが日本的わび・さびの極致とした桂離宮が実は金ピカだったのが歴史の塵芥で汚れていただけというのに似たショックが、新千年紀の変わり目にレオナルド学全体を強撃した。コンピュータ・グラフィックスが美術史を変え始めた代表的ケースとして長く記憶されるだろう。

二人のデザイナーは手稿のありようを考えつつも、あくまで手稿上のデザインに集中して、それをCGに移す。その過程で今まで問題にならなかったようなレオナルドの特徴が見えてきたりする。こういうことも起こる。「完璧に再現したつもりの構造や仕掛けが、最後の最後になって見つかった小さな部品のおかげで根底からくつがえされ振り出しに戻」った。「自走車」のケースだが、その入れこみから、「連射式大砲」の図解(108-115)と並ぶ、同書図解中の華である。

レオナルドのデッサンを凝然精査して、立体模型をつくる代わりにCGに立ちあげていく。さまざまなアングルから連続的に見るとか、一部を断面化して向こうを透視させるとか、やりたい放題なわけだが、ふと考えてみれば、16世紀当時、レオナルドの機械図や解剖図を断然ユニークたらしめていた作画技法を、今そっくりコンピュータが随分と楽になぞり、実現しているのにすぎないとも言える。「ほかならぬレオナルドも、考察や思考のプロセス、斬新なアイデアを視覚化してスケッチで伝えようとしたのである。装置の複雑な仕組みや構造を余すところなく伝える本書のCGは、まさにレオナルドの夢の実現と言えるだろう」とあるし、「天賦の才能が醸しだす魔法のような魅力こそはないかもしれないが、機械の全貌をしっかりと伝えるという点では、原画を超えたと言ってもいいだろう」。大変な自負だ。

逆に、こうしてCGが多様なアングル、無数の部分に分けて見せなければならぬ内容を二次元の紙葉にハッチングやインクウォッシュだけで封じ込め、多様な解釈をクラスター爆弾(その図解もある)のように閉じ込めたレオナルドの<絵>とは全体何か、ということである。「機械の設計画を――他者に伝えるために絵で表現したというよりも――分析と研究のための手段ととらえた」(パオロ・ガルッシ)。絵は実物にひとしいとか、あえて実験をする必要がないほどの絵のリアリティといった不思議な<絵>観の背後に、「芸術家であり技師でもあるという新知識層の出現によって・・・<知的な>創造行為だと考えられるようになっていた」動きがある。それこそはマニエリスム・アートの定義ではないか。ヴァザーリマニエリスム絵画論を引くドメニコ・ロレンツァの巻頭言はだてではない。「思考や判断は精神によって成しとげられ、それを手を使って表現したものが絵画」だ、と。

分解して一つ一つの部品までていねいに描いた画像は、さまざまな想像を呼び起こす。レオナルドの機械を頭の中でバラバラにしたり組み立てたり、自由にイメージをふくらませて楽しんでもらいたい。(p.7)

「機械要素」の組み合せを、『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』書評でぼくはアルス・コンビナトリアと呼んでおいた。現代最強のCGデザイナーが16世紀マニエリストの(たぶん無自覚な)末裔たることを証すというのが、この近来稀な美しさの本の(たぶん無自覚な)スマッシュヒットである。持っているだけで嬉しい一冊。

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