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『石原吉郎詩文集』石原吉郎(講談社)

石原吉郎詩文集

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「失語者の発想」

 石原吉郎はもっと読まれるべき詩人である。


 石原といえばソ連での長期にわたる抑留体験が知られており、作品としても「位置」、「事実」、「馬と暴動」、「葬式列車」といった、囚人としての体験を多少なりとも雰囲気としてただよわせるものが取り上げられることが多い。どの詩も、帰国してから40歳になってはじめて詩を発表した詩人石原のエッセンスがこめられたもので、たしかに怖いような迫力がある。

そこにあるものは

そこにそうして

あるものだ

見ろ

手がある

足がある

うすらわらいさえしている

見たものは

見たといえ

「事実」

 しかし、こうした作品、ちゃんと読めば読むほど、よくわからないのである。詩と詩でないもの、もしくは言葉と言葉でないものの境を行き来するような壮絶さがあって、まるで出産の現場に立ち会うような緊張をこちらに強いる。果たしてそれを簡単に「詩」と呼んでしまっていいのか躊躇する。

われらのうちを

二頭の馬がはしるとき

二頭の間隙を

一頭の馬がはしる

われらが暴動におもむくとき

われらは その

一頭の馬とともにはしる

われらと暴動におもむくのは

その一頭の馬であって

その両側の

二頭の馬ではない

「馬と暴動」

動物が出てきて、暴力性とともにますらおぶりで語られるあたり、一見、高村光太郎や、同じ荒地派の田村隆一を思わせるのだが、やはり全然違う。もっとはるかに硬質というか、無機質なのだ。人間的ではないのだ。相手との温暖な交流を前提としたヒューマンな「了解」など問題にしていないように読める。だから、「わかるか」と言われて、簡単に「わかる」といっていいのか、迷う。わかられることを拒絶するような仕草が、読者に対する剥き出しの冷たさとしても感じられるような気がする。(筆者などには、この寒々しさがたまらなく良いのだが。)

 この講談社文芸文庫版の選集の冒頭には「詩の定義」という短文が載せられている。その中で石原は、「詩とは何か」と問われると返答に困るのだが、答えがないわけでもないと言う。

ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。

「沈黙のことば」などというと、21世紀になった今となってはやや古めかしく響くかもしれない。ましてや石原吉郎に「詩って何ですかあ?よくわかりませ~ん」などというのびのびした問いを平気で発するような人にとっては、この返答はいたずらに勿体ぶって、でも、まあ、そこが詩人っぽいかなあ、という程度の響きしかもたないかもしれない。

 でも、石原の詩への入り口として、これほど的確な説明はない。この問題についてもっと具体的にわかりたいという人は、この選集に「ペシミストの勇気について」という何とも凄いエッセーが収められているので、是非のぞいてみて欲しい(立ち読みでもいいので!)。ソ連でともに収容された鹿野武一という友人のことを書いているのだが、ああした詩の背景にあるものを散文にするとこうなるのか、と思わせる。また、「失語と沈黙のあいだ」という文章には、失語症を自身で体験した石原ならではの、鋭い洞察がある。

失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるということは、非常に重要なことだと思います。

私は、受刑直前の二ヶ月間、独房で自分自身と向きあうしか所在のなかったとき、ひっきりなしにひとりごとをいうくせがつきましたが、そのとき私は、とりもなおさず、自分自身を納得するためのことばに向きあっていたのだと思います。

私は、ひとりぼっちで混乱のただなかに立たされた人間の立場というものに、痛いほどの関心をもつわけですが、連帯をたち切ってくるのは、かならず向こう側からです。私たちの側からではありません。そして私たちは、向こう側から断ち切られた連帯を、もういちどこちら側からたち切りなおす、という念の入ったかたちで、はじめてひとりぼっちになるわけです。

こうした言葉の端々に、失語と発話の境目を漂うという石原の体験が反映されているのは明らかだろう。もちろん言葉を失うということは、共同体からの隔絶を意味する。それをいわば逆に辿り直す形で書かれる石原の詩の言葉を、我々が簡単にわかってしまうこと自体が、石原を読んでいないということの証拠となるのかもしれない。

 これはなかなかたいへんである。たぶん石原吉郎という詩人は、いきなり原液で味わうのは難しいのだ。そこで最初に読むなら、石原の持ち味を出しつつも、幾分詩という制度に歩み寄ったとおぼしきものから始めるのもいいかもしれない。筆者のお薦めは「耳鳴りのうた」、「夜がやって来る」、「さびしいと いま」など。いずれもすでにあげた作品と同じく、第一詩集の『サンチョ・パンサの帰郷』に収録されたものである。

おれが忘れて来た男は

たとえば耳鳴りが好きだ

耳鳴りのなかの たとえば

小さな岬が好きだ

火縄のようにいぶる匂いが好きで

空はいつでも その男の

こちら側にある

風のように星がざわめく胸

勲章のようにおれを恥じる男

おれに耳鳴りがはじまるとき

そのとき不意に

その男がはじまる

「耳鳴りのうた」

石原の作品のいくつかには、ことさらエコーを響かせるようにして繰り返しが使われているものがある。ここでは「耳鳴り」という言葉がそれだ。石原の言葉は甘くもなく流麗でもないのだが、ずれながら繰り返される「耳鳴り」という言葉は、なんともごちごちした音楽性とともに、あれよあれよと不思議な形で言葉を連鎖させる。イメージが広がるわけでもないし、媚薬めいた雰囲気を嗅がされるわけでもないのだが、くっ、くっ、とたぐり寄せられる感がある。

 「さびしいと いま」という作品は切れ目のない、輪唱のような独り語りで進むのだが、ここでも「さびしい」という言葉が幻聴のように何度も繰り返されて、語り手の乾いた荒れた手で引きこまれる感じがする。

さびしいと いま

いったろう ひげだらけの

その土塀にぴったり

おしつけたその背の

その すぐうしろで

さびしいと いま

いったろう

そこだけが けものの

腹のようにあたたかく

手ばなしの影ばかりが

せつなくおりかさなって

いるあたりで

背なかあわせの 奇妙な

にくしみのあいだで

たしかに さびしいと

いったやつがいて

たしかに それを

聞いたやつがいるのだ

いった口と

聞いた耳とのあいだで

おもいもかけぬ

蓋がもちあがり

冗談のように あつい湯が

ふきこぼれる

「さびしいと いま」

これだって、すっきりわかるかどうか、といえば、わからないと答えるべきのような気がするが、最初にあげたような作品とくらべると、はるかに共同体的な「情」の影がある。そこから呪術的なものがにじみ出している。拒絶に走る一方で、拒絶に走るということ自体が共同体に対する忌避や怨恨やノスタルジアといった働きかけを含んでいるのかな、と思わせる。

 聞き手とのチャンネルを開いたようなこうした作品を、石原がエコーのような繰り返しを通して行ったというのはおもしろい。失語にはいろいろな段階があるのだろうが、失語をへた語り手が、一種預言者めいた高みに登ったように見えることもあるのだ。

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