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『人造美女は可能か?』巽孝之、荻野アンナ[編](慶應義塾大学出版会)

人造美女は可能か?

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オタク死んでも、やっぱマラルメは残るぞかし

いってみれば機械マニエリスムが16世紀に始まったことを教えてくれる最近刊に次々と啓発された後、その20世紀末~21世紀初頭における再発を一挙総覧できるのも、有難いし、面白い。それが慶應義塾大学藝文学会2005年末の恒例のシンポジウムのプログラムに多少の稿を加えての今回作。

巽孝之氏の編というので、見ぬうちから安心。序に「わたしたちの人造美女エンサイクロペディア」を謳うが、書き手・読み手として以外に、編む人としての巽氏の目配りぶり、遺漏なき網羅への意志を誰よりも愛ずるぼくなど、目次案をじっと眺めて、もはや画期書と納得した。1954年にフランスで刊行されるや近現代セクシュアリスム論のバイブルと呼ばれて、東野芳明澁澤龍彦といった論者の決定的霊感源ともなったシュルレアリスト作家・批評家、ミッシェル・カルージュの名著『独身者の機械』“Les machines celibataires”の主張を前提にした上で、2007年に向けその先へ出ようとした一冊である。精神の不毛と愛の不能が機械をうみ機械狂いに反映されていく、という今時最大のテーマのはずが、根幹になってくれそうな議論が、依然カルージュ本以外にない。見るに見かねて(仏文の人間でもないのに)ぼくが訳したのが遅くも1991年。考えてみるとサイバーパンクの熱い議論はその辺からなので、この恥ずべき文化的ラグは怪我の功名だったのかもしれないと、本書を読みながら微苦笑のぼくでありました。

収録作「ヴェルヌとルーセル、その人造美女たち」(新島進)が、このカルージュのアプローチを巧く整理する役で、それによると、カルージュがデュシャンカフカの共通項として析出した独身者性(celibacy)とは「愛と生殖の拒否」、「機械的工程としてのエロティシスム」、「女性との関与や交感の不可能性を模している機械」というふうにまとめられる。あの超の付く難解書を巧く読んでいると感心したが、新島氏のコメントや良し。巽序文をさらに凝縮した一文を全巻要約として、引く。

 カルージュの「独身者の機械」論はそれ自体が刺激的な論考であるが、戦後の高度成長に伴うハイテク産業の発展と、これに無縁でない独身者文化の成熟のなかで、ながながとその命脈を保つことになる。1975年には「独身者の機械」展がヨーロッパの複数都市で行われ、翌年にはカルージュ論が増補改訂した新版が出版された。

 また80年代半ばに世界の文壇を騒がせたサイバーパンクSFも独身者文化と高い親和力を持っていた。仮想現実やサイボーグといったガジェットからもそれは必然であったろう・・・

 そしてサイバーパンクSFで幻視され、消費された記号に「ハイテク国家ニホン」があった。現在、アキバという聖地を持ち、非婚・晩婚化と少子化が止まらず、ピグマリオン/独身者の欲望が全開になっている人造美女の帝国。この地でのカルージュ受容は速やかに行われた。その中心人物こそが――球体関節人形史と同様――澁澤龍彦であり、彼はカルージュの論考に刺激を受け、自らの人形愛論を構築していくのだった。(pp.38-39)

寄稿者全員に、この「人造美女文化で明らかに世界の最先端」が日本という認識と、「現代のオタク文化」と論者各自のテーマとを必ず結びつけて論じなければという強迫が徹底している。

だから、場としての日本の特権視ということで、名著『現代日本のアニメ』のスーザン・ネイピアによる寄稿文「ロスト・イン・トランジション」も、one of manyという感じで余裕をもってふむふむ、と楽しめる。「日本が世界中のどの国にもまして1853年以来明らかにトラウマ的な移行の数々を経てきた」。あまりにも当たり前のことと見えて、こう批評的にまとめられると、アッ、ふうんである。激しい移行のうむ「空虚に対する一種の自己防衛手段」として、「移行対象」として、アキバのもろもろ、「かわいい」あれこれは、このニホンに大繁殖する他ない、と、『新世紀エヴァンゲリオン』や『イノセンス』といったアニメを使い、宮台真司東浩紀を使ってやられると、別段何を今さらという感じもなく、巧いまとめだなと素直に勉強した。ガイジンが澁澤を云々しているのを初めて見て、それだけで時代を感じる。『ユリイカ』2005年5月号が「人形愛」特集号で、一読、挙げて若者文化がシブサワを大賛美。S.ネイピアが『ユリイカ』を熟読している図、愉快。このところのオタク寄りを昔の愛読者たちからいろいろ言われてきた『ユリイカ』。だが確かに新生面を開いた。時代が、そうさせる。

見事な目次の下、あとは各論。独身者の機械といえばホフマンの『砂男』が不可欠。これは『メトロポリス』の女ロボットとの系譜で識名章喜氏が巧く書いている。『砂男』のナタナエルの墜死を、クライストの「操り人形論」を使って、「重力に罰せられた」のだとまとめるウィットは、当たり前と見えて創見。「萌え」をドイツ・ロマン派でやったのがホフマンといわれて痛快だった。ホフマンとくればポー。これは系譜化の天才、巽氏の領域。実に広い目配りで危なげない中にも、「ポーをドストエフスキー経由で摂取したモダニズム作家ウィリアム・フォークナー」などという文章が輝く。余人にかなうわざでない。

人造人間といえばフランケンシュタイン・モンスター。高野英理氏の「ゴシックの位相から」はそこから始めて、意外に陳腐なのかなと読み進めると、日本における稚児愛、そして少年天皇をめぐる天皇観の問題へと深まり、「主体を完全に捨象した絶対の客体としての<不可能な自己>」こそがこの問題の核芯とする。美少女アンドロイド(ガイノイド)問題はどうもこの一句に集約される。カルージュ名著の増補改訂版には、独身者機械の神話とは即ち常は隠されて見えない“object”の浮上だと主張する新たな長文補遺があったが、このことだったかと、やっと腑に落ちた。高野英理氏の最新刊『ゴシックスピリット』(朝日新聞社、2007)を読みながら、ゴスロリの「歴史的」考察ということではこれも忘れがたい『テクノゴシック』(ホーム社、2005)の著者、小谷真理氏も並んで一文を寄せている。アーサー・ゴールデンの原作小説を映画化した話題の『さゆり』の芸奴世界の偽物性が『ジュラシック・パーク』(1990)のテーマパーク性と通じるという議論が、テーマパーク化した日本を分析するスーサン・ネイピアの論と反響し合う。巧妙なテーマと人との配置の下に、第一級論者の寄稿文がこういう感じの反響を繰り返し、論集にありがちな掻き集めの散漫と無縁なのが良い。

個人的にいえば、ただ一人戦前派、自ら「旧人」と名のる慶應義塾大学「名誉教授」、立仙順朗氏の巻頭論文「マラルメの効用」の効用に感激した。実は問題のシンポジウムはパネリスト一同コスプレで行ったらしく、荻野アンナ氏紹介のその場のやりとりは、元祖ゴスロリ宝野アリカ氏の学者コンプレックスが笑える場違いとともにご愛嬌なのだが、そういう仮装大会の中でただ一人、端然と平服で坐す老体の威風になぜか感激してしまう。

マラルメといえば、およそアキバと一番遠い、まさに純文学中の純文学と思われている。その優秀な研究者が、パネリストたち共通の関心事たるアニメを借りようとしてショップに赴き、ネイピア『現代日本のアニメ』を読んで改めてマニエリスム的優美をもって鳴るマラルメの秀什「エロディアード」を読み直すとなれば、この頃、何のかんの言って似たようなことを要求されることの多い身としては、どきどきしてページを繰る他ない。四捨五入して七十(失礼!)という学匠が、「ほとんど勝ち目のない賭け」と仰有りながら、「言語サイボーグ」だ、「言語という人形遣いプログラム」だの口にされるので、何と危うげなことを、と思って読んでみると、定型詩はそのものが独身者機械なのである、とちゃあんと説得されてしまう。「テクストの快楽という、われわれのオタク的状況そのもの・・・」。なあるほどね。超難解詩人が「現代のオタク文化」に「はしなくも」通じるという指摘さえ薄氷を踏む思いでできてしまえば、あとは修練積んだマラルメ詩愛好家の自身に満ち満ちた解説のわざ全開。にわか勉強でも、実力ある人の文化論は、やはり凄いものだ。二世代も三世代も若い人たちとの「ほとんど勝ち目のない賭け」に結局、立仙氏が勝った。男だ女だではなく「言語というもの自体が実は精巧な機械、一種のプログラム」(新島論文)という認識で共通するフランス系批評の説得力が大きいのも、面白い。立仙論文はそこをズバリ。立仙論文を一番頭に置いた巽氏の編集判断に非常に興味がある。問題作の年表や相互関連略図などもよくぞ付けてくれましたで、カルージュ本付録の同種年表を現在にまで展げてくれて貴重。兎角、サイバー文学に関心ある人には必携の一冊と見た。

ひとこと。ここまで完璧にやるのなら、どうして、Felicia Miller Frank, "The Mechanical Song : Women, Voice, and the Artificial in Nineteenth-Century French Narrative"(Stanford Univ. Pr.、1995)という究極の一書がどこにも出てこないのか。仏文のヒトのあらかたが英語が苦手だからといったつまらぬ理由で、こういうニッチーな名作が次々忘却されていく。なんなら訳そうか。今回作のキーのところにありながらカルージュの名作邦訳が出版社の恣意で知識市場から姿を消して久しい。新島氏あたり新訳して、息長く出してくれそうな別の出版社から出し直してみてはくれまいか。凄い本を出したら、本屋は出し続ける責任がある。『独身者の機械』は絶対その種の本なのだ。

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