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『視覚のアメリカン・ルネサンス』武藤脩二、入子文子[編著](世界思想社)

視覚のアメリカン・ルネサンス

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いまさらながら巽孝之には「おぬし、できるな」である

入子文子氏氏の「覇気」に触れた機会に、氏も共編者となった『視覚のアメリカン・ルネサンス』という論叢を紹介したい。「アメリカン・ルネサンス」とは薄幸の巨人的批評家F.O.マシーセンが19世紀中葉、やがてD.H.ロレンスがトルストイドストエフスキー時代のロシア文学にも匹敵するとして、田舎ぶりと貶下されていたアメリカ文学に初めて高い評価を与えることになる、ホーソーンメルヴィルの文学を総称して用いた巧妙な呼び名である。そのマシーセンの巨著“American Renaissance”は、1941年という超のつく早い時期に、この時代のアメリカ文学の特徴として、見ることと認識することの相同・乖離という非常に哲学的な問題をメインに抱え込んでいることを、冒頭に取り上げていて印象的であった。

時代の哲学的側面を一人代表したネオプラトニスト、エマソンの1836年のエッセー“Nature”(各版あるが例えば“The Essential Writings of Ralph Waldo Emerson”に収録/邦訳『自然について』)など、ぼくはアメリカ文学研究を志していた初学生時分、ほとんど全文を暗誦できたほど、その一行一行を熟読したものである。余りにも有名な“Eye=I”という「語呂合わせ」を基に主体と世界の関わりを論じたこの一文が既に、ジョン・ダンマニエリスムイングランドと19世紀アメリカ文学の深い共鳴関係を示しているもののように思われる。

であるにも拘らず、アメリカン・ルネサンスにおける「視覚的」文学の研究は遅れに遅れた。もっとも例えば先行すべき英国の同種研究自体、デイヴィッド・ワトキンによる久々のピクチャレスク研究が1982年刊ということだから、アメリカ文学研究ばかり責めるいわれはない。英国ピクチャレスクについてはたまたまその役が回ってきたので、拙著『目の中の劇場』(1985)でその辺総覧すると同時に、E.A.ポーとヘンリー・ジェイムズに触れて、アメリカにおける視覚的な文学の研究が差し迫った課題であると提案した。顧みて信じられないが、当時、“Picturesque”を「画趣ある」「美しい」などと平気で訳す訳文が多くて呆れかえった(本当は「荒涼とした」という凄愴美のことである)。

それから約20年、状況の一変は驚くばかり。エンブレム文学テーマで独走する入子氏は別格として、1980年代からは本国アメリカでのまさしく汗牛充棟の研究書刊行を反映して、アメリカン・ルネサンスの視覚的文学の研究は伊藤詔子、野田研一両氏を中心にあれよあれよという急進展ぶり。却って御本家英国のそちら方面の脆弱が恥ずかしいほど勢いのある世界となっている。認識と視とは骨がらみであり、認識のフレームワークを一貫したテーマに挙げる鷲津浩子氏も、この動きを引っ張る一人だ。

この論叢にしても、第70回日本英文学会全国大会の「アメリカン・ルネッサンスと視覚芸術」部門(司会は入子女史。実はぼくもゲスト参加)の口頭発表、『英語青年』誌でのその活字化(1998年10月号)を基にしている。また、本書の執筆者は、さまざまな学会誌や『英語青年』などに各自発表したエッセーを基にしたり加筆したり、いろいろな学会での口頭発表の積み重ねであったりする旨、それぞれ記していて、英文学界一般の低調に比し、アメリカ文学界のこの方面における精彩はたいしたものだ。

収録13篇のうち4篇がホーソーン論というのは、たぶん入子効果だろう。重いモラルを引きずる暗い文学というホーソーン文学のイメージが絵大好きな方法論の書き手というイメージにチェンジするのが、今どきの一般読者にとっては貴重だが、やはり入子氏の綿密な『痣』の紋章学・図像学的読みが圧巻。『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』を知らずにいきなり本書を読んでいたら、本当にびっくりしたはずである。

ポーが排されているのはマシーセンが「アメリカン・ルネサンス」概念からポーを締め出したからなのか。ピクチャレスク風景を巨大単眼と化したエマソンが見るという絵柄で“Nature”を論じた野田論文、このところのアメリカン・サブライム研究の隆昌をきちんと復習させてくれる伊藤論文など、バランス良い目次案だが、ポーにはもっと紙幅を割いて欲しいし、メルヴィル論はあまりにもおざなりであるまいか。概して、やはり世代が上になるほど方法意識がないということが判る。ヘンリー・ジェイムズ関係は2本。ジェイムズと写真の関係を追う中村善雄論文は手堅く、かつ必須のテーマだが、Adeline R. Tintner女史のジェイムズ研究三部作(“The Museum World of Henry James”等)こそアメリカ視覚文学研究の近来の枠なのに、肝心の絵画との関わりがズボ抜けなのはいかがなものだろう。収穫は水野眞理氏の「挿絵は誰に何を見せるか」。読者が一緒に考えられ、入り易い素材を選んだのが良い(議論はハイレヴェルだ)。

やはり桁が一つ違ったのが「超絶時代のフィルム・ノワール――エミリー・ディキンスンの形見函――」の「大」巽孝之氏である。鷲津氏をインスパイアしたアレン・カーズワイルの“A Case of Curiosities”(邦訳『驚異の発明家(エンヂニア)の形見函』〈上〉〈下〉)を下敷きにして、その家屋敷に異様に執着したディキンスンのヴンダーカンマー詩学とでも呼べそうなものを論じるのかとドキドキしながら読み始めたら、想像通りキャビネ [袖出し] の中に「ポートフォリオ」状態で書き溜められていくディキンスンの詩のありようが、ジョゼフ・コーネルの有名な「箱アート」以下多くのアーティストを、ウィリアム・ギブスン、デニス・アッシュボウ共作の書物芸術『アグリッパ』(1992)までインスパイアした経緯を辿る。文章にエレガンスが要求される展開だが、「まさしくポートフォリオ形式に関する理論こそが、書物以前の原書物が備えるジャンクアートの理論として、ディキンスン作品がいったいなぜ以後の作家はおろか、とうにモダニズムを超えたポストモダニズムの視覚芸術家たちにまで絶大な影響を与えていったかを、解き明かすよすがになる」とか、なんとまあ巧いものだし、材料にしても要するに持っているものが違うということなのだろう。文学とアートが本質的に通じざるを得ないことを「解き明か」し得たのは結局、巽論文のみ。今後あり得べきekphrasis [画文融通] 論のモデルとなるだろう。以前取り上げた『人造美女は可能か?』中の巽氏による一文とも併せ、一度ディキンスンを読み込んでみようかと思わせる。『人造美女は可能か?』同様、本書も巽氏が編集したら良かったのだろう。

総論が弱いと論叢は求心力を欠く。いろいろあって論叢ブームの世情ながら、全巻を巧くオーケストレートできている論叢があまりに少ない。改めてそう思ったのも、Takayuki Tatsumi が中心になって編んだ“Robot Ghosts and Wired Dreams : Japanese Science Fiction from Origins to Anime”を併せ読んでいるからだ。日本語での仕事の凄さがそっくり英語で世界発信の段階に入った巽、まさしくやりたい放題の自在無碍。あっばれである。

入子氏には藤田實氏との共編の最新刊『図像のちからと言葉のちから-イギリス・ルネッサンスとアメリカ・ルネッサンス』もあり、副題に謳われるように「文学的図像学」の領域ではアメリカはイギリスと堂々と肩を並べるに至ったようで、見るところ入子文子ひとりの獅子奮迅によるものだから驚く他ない。

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