書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野嘉彦(みすず書房)

ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス

→紀伊國屋書店で購入

本当はフロイトその人が一番あぶないのかも

マラルメの「純文学」的難解詩にアキバ系人造美女の構造を見た立仙順朗氏のエッセーに感動させられた『人造美女は可能か?』を読んだ後、今年の新刊なら平野嘉彦『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』に手を伸ばさないわけにいくまい。『人造美女は可能か?』の陰の主役だったドイツ・ロマン派怪奇“Märchen”の名手、E・T・A・ホフマンの超難物奇作『砂男』(1816)の「人形」と「光学器械」を俎上に載せる。約百年間、難解とグロテスクリの故に忘却されてきたこの短篇に、眼の喪失=去勢恐怖というアッというエディプス複合的解釈を下して精神科医ジークムント・フロイト精神分析的文芸批評に突破口を開いたこと(「無気味なもの」1919)はよく知られているが、百年を間に挟むこのふたつのテクストに焦点を当て、はからずも分析者フロイト自身、『砂男』で悲劇的な死に至る主人公ナターナエルとそう違わない「関係妄想」に陥っていたことを言う。その一方で、一見『砂男』と似た物語の展開と「人形と光学器械」の小道具を持つ乱歩の『押絵と旅する男』(1929)を『砂男』と比較して、実は「ヴェクトル」は真逆ではないかという指摘に至る。

『砂男』を訳し直した上、フロイトの如上問題作「無気味なもの」をも併せ訳し直し、両者の関係をいかにもフロイトマニアの立場から巧妙に説いた解題を付した種村季弘氏の企画力抜群な河出文庫版『砂男』(絶版が大遺憾)よりこの方、『砂男』ものでは一番の掘り出し物。高校生をターゲットにした叢書の一点としては大変すぎる本、というほどの意味である。

個人的には精神分析批評の手法にはつくづく嫌気がさして、まずまともには相手にしないぼくにしても、フロイトという異様な頭脳の中でネチネチと紡ぎだされてくる文芸理論の構造そのものは、これはまた格別に面白い。フロイトや愛弟子マリ・ボナパルト精神分析的文芸理論の上澄みを便利な小道具として運用する一方の故澁澤龍彦流と違って、援用したフロイトそのものをホフマン的構造の中に取り込んで論の対象にしたところに、この本の輝く価値あり、と見た。独文的知とでも言える何かがあるのか、種村季弘流に近い。

『砂男』の粗筋はなかなか簡略には述べられない。複数の視点が互いに相対化しつつ錯綜するので、幾解釈も可能。とはつまり粗筋というのも一解釈である以上、正確な「事実」を述べる粗筋なる観念事態が宙吊り、ということになるからである。こういう作者をも読者をも巻き込む作品構造を、マニエリスト的瞬間のオルテガ・イ・ガセーニーチェはパースペクティヴィズムと称したが、平野氏は「小説批評の重要なカテゴリーであるパースペクティヴ」をこそ問題にするのであって、従ってホフマン、乱歩の双生児的二作において、望遠鏡、双眼鏡という「光学器械」は「芸術の構造原理そのもの」を担い、「主題と構造の双方にかかわっている」ことになる。光学の喩えで言うなら、この複眼的、マルティプルな論の大小軸のタフな往復がはっきり見えるから、大に紛れず小に溺れぬ実にバランス良いホフマン論に仕上がっている。

『砂男』冒頭に闖入してくる怪人コッペリウスが、成人した主人公の会う晴雨計売りのコッポラと同一人物であるかは、実はわからない。名が類似しているというだけ。それが「換喩的連関」をどうしても「隠喩的連関」へと昂進せずにいられぬ主人公の「関係妄想」は二人を同一人物と見てしまうことから、墜死に至る錯乱にと追い詰められていく。

主人公ナターナエルを狂気にした望遠鏡だが、同じホフマンの『従兄の隅窓』では、広場を広やかに眺めわたす「市民社会観相学」の具として機能し、悲劇の後の(ナターナエルのかつての許婚者)クラーラのささやかだがハッピーな小市民生活に連なるものの見方をもたらす。カフカの『変身』の幕切れそっくりという指摘は実に新鮮である。

乱歩の『押絵と旅する男』も同様に実に巧みに「人形と光学器械」というテーマで整理されていくが、要するにホフマンとはヴェクトルが逆というところがポイントである。蜃気楼の見せるパノラマ的拡大イメージの「近代」に背を向けて「覗きからくり」のミニチュア世界に身を潜める『押絵と旅する男』の中の「兄」の「古びて」見える外観に触れて、平野氏はこう結論づける。

日本の前<近代>への回帰は、「当時としてはとびきりハイカラな、黒ビロードの洋服」を着たモダニストを、「プリズム双眼鏡」という最新のアイテムをもちいて、「結い綿の色娘」が棲んでいる押絵の世界へと回収するという、きわめて逆説的なプロセスによって遂行されました。昭和初期に身をおいている「私」の眼からすれば、すでに古びた<近代>が、やはり古びた<近代>によって回収されてしまっている、というだけのことになりかねないのですが。いずれにせよ、そのような退行は、生成しつつある市民社会の認識原理を構築しようとしたホフマンとは異なって、すでに<近代>に背をむけてしまっている、往きて還らぬ、もはやあと戻りすることのできない方途であったことだけは、まちがいないようです。(pp.73-74)

洋風文物を大量に移入する一方で日本「近代」の「いよいよ亢進する歴史の跛行」というアポリアないしパラドックスが富山から東京への「夜汽車による帰り途」という行程にこそ象徴されるという見事な、コンテクストと細部分析両軸の一致とはなるわけで、久しぶりに幻想文学批評の読み応えある文章である。

今、独文といえば、「メディア革命」プロジェクト下のフリードリヒ・キットラーであり、ヘルムホルツ文化・技術センター周辺に集まる21世紀標準の新人文科学の動きであって、キットラーやブレーデカンプの名が出てくるだけで、人文系他分野の人間はいきなりおそれいるしかない。ホフマン、乱歩を講じ切ったあとの第三講の実質的主人公がキットラーである。先に言ったように、ホフマンの主人公の病根を分析中のフロイトその人も「隠喩的連関」に囚われていて、本当は相反する役割を分担している「父親たち」をすべて同一視している。『砂男』冒頭は錬金術の実験の場面らしいのだが、

魔術的、呪術的な<知>は、この小説のいたるところに瀰漫しています。あるいはナターナエルの<妄想>の所産とも思える、そして、この作品を分析しているはずのフロイトまでもが駆使しているところの、「類似性」を契機にして網の目をひろげていく、あの「隠喩的連関」が、その正体です。(p.118)

こういう「魔術的、呪術的な<知>」に戻った乱歩、「差異化」へと逃れたホフマンという対比になるわけだが、フロイトがそうやって「魔術的」にごっちゃにし同一視した「父親たちの差異化に成功」したのがキットラーである、とする。こういう「フロイトの願望」、「フロイトの思考の特徴」そのものを、ホフマン、乱歩を通して洗い出す意図をもった第三講は「高校生が読んでわかりやすい」かどうかには疑問があるが、多面に過ぎて入りにくいフロイト心理学と、その文芸批評の中での位置については最近稀にみる明察といえる。

「いささかの文化史的考察」も含むという前書きにわくわくしていたら、サイレントからトーキーに移る頃の映画史のことらしく、ホフマンにしろ乱歩にしろ、映画的なものも含め広い「見る」営みの考察に淫した相手なのだから、ラカンを重くみる平野氏のこと、マックス・ミルネールの『ファンタスマゴリア』(ありな書房)、それからホフマンからフロイトに至る目と眼差しの問題を初めてという目次立てで精査したマリア・タタールの『魔の眼に魅されて』(国書刊行会)の二著のみは、いくら「二次文献はあえてほとんど利用しなかった」とはいっても、掲げてほしかった。こういう素晴らしい本の登場をこそ期待してこの二名著の逸早い邦訳を実現しておいたぼくなればの望蜀の思いである。

近々、三谷研爾氏が編んだ『ドイツ文化史への招待』(大阪大学出版会)を評すつもりだが、英語圏・フランス語圏になかなか育たぬ「文化史」。細かい語句にこだわりつつの批評から深いキットラー文化史への理解も含め、いよいよこの面白いドイツ文化史への受け皿となり得べき世代が登場、と言いたいところだが、平野氏は既にカフカ研究他で一家なす知らぬ者ない御大。1944年生まれというから松岡正剛さん世代。立仙順朗氏といい、若者真ッ青のやわらかな自在境ではないか。いつも拠るのが『平凡社大百科事典』というのも、高校生向きに気を回したなかなかのご愛嬌で、笑える。兎角、本当は凄い本。

→紀伊國屋書店で購入