書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足――神経内科からみた20世紀』 小長谷正明(中公新書)

ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足――神経内科からみた20世紀

→紀伊國屋書店で購入

「多彩な著名人の病状から歴史を診断する」

医者の書いた本がしばらく続く予定である。今回は神経内科医。


著者の小長谷正明氏の医学論文は、私でさえいくつかは存じ上げていたのだが、著者みずから、あとがきで「今回はさまざまな考え方をもっている読書人向けに書いた」とあるように、本書は一般人に向けて執筆された。確かに神経内科的に考察された有名政治家の評伝は、肩が凝らない読み物になっている。

 ある日、小長谷氏がテレビを見ていると、左手を震わせているヒトラーが映った。注文の寄稿に何を書くべきか迷っていた氏はあっと声を出し、目をみはり、猛然とワープロを叩き始めたという。テレビを見てると病気の人が映る。直ちに無意識的に病名を診断してしまうというのは職業病という病であろうが、診断目的で歴史を紐解くと歴代の独裁者に神経難病のなんと多いことよ。

 表題の「ヒトラーの震え」はパーキンソン。「毛沢東の摺り足」はALSだ。またレーニンは動脈硬化だったらしいが、その原因を「強い言葉で同じことを繰り返すうちに考えの幅が狭くなり、頑固になる」アジ演説に筆者はみてとる。後を継いだスターリンもまた同じようにして言葉を失った。マルクス主義が「教条的で荒っぽいイメージになってしまったのは、ロシアで最初にレーニン主導のマルクス主義革命がおこったからかもしれない」。指導者の病歴から小長谷医師は歴史を遡りこう分析するのである。

 やがて、体調を崩したレーニンは共産党の独裁体制を強化するために、後継者として政治面ではトロツキーを、党中央委員会書記長にはスターリンを推薦した。トロツキーは断ったが、スターリンは受諾し、レーニンの脳梗塞の悪化に伴い代わって政権を操ることになるが、彼もまた脳梗塞、しかもパラノイア(誇大妄想)で、治療しようとする者は要人暗殺の疑いがかけられた。主治医のヴィノグラードフも医師団陰謀事件のかどで逮捕されラーゲリに送られてしまっている。そうして主治医を逮捕してしまった後は、獣医の心得のある警備兵にアドバイスを受けていたという。

 スターリンの後、フルシチョフは平和裏に追放され、ブレジネフに続くが、著者の調査をもっても、彼の病名は定かではない。だが、文献からは、重症の動脈硬化多発性硬化症、脳軟化により判断力はなく、最後の二年間は側近の思うがままであったことは十分推察できるという。そして、アンドローポフ、チェルネンコと病身で統治能力のない書記長が続き、最後のゴルバチョフの時には社会主義共和国連邦の崩壊は、もはやコントロールできないものであった。そこで、マルクス主義国家の成立から崩壊までのことあるごとに「指導者たちの脳の疾患が深く関与していた」となる。ソ連だけではなく、アメリカ歴代の大統領もまた脳の疾患に苦しめられてきたというから、東西で政治という檜舞台の裏に神経難病や脳の器質的疾患が潜み、統治者をコントロールしていた。

 著者はできる限り彼らの診断書や医学文献を取り寄せて、その所見から医学的客観性を保ちつつ、歴史のうねりを診断した。その解説がいかにも難病オタクっぽくて、そしてそうであるがゆえに素人にも十分楽しめ、かつ著名人の病状の克明な解説により、怪しく難しげな神経難病についての、絶好の初心者向けテキストになっているのだ。その点でも一読の価値があろう。

 また著者は最終章の最後でこう結んでいる。

「リーダーの存在感があまりに大きいとき、執務能力の低下・失は強いインパクトとなり、ときには秩序が崩れカオスをもたらしかねない」。

 そう言われると、本職の医者でなくとも私たちだって、テレビ画面に映る政治家の顔色、表情、歩き方、化粧のノリをつぶさに見ては、彼らの健康状態をお茶の間診断しない日はないだろう。ただ、こうも考えられる。現職の総理大臣に倒れられては情けなくもあるが、国にカオスをもたらすほどの政治家がいない国に住んでいるということは、もしかしなくても、私たち、幸いなのである。

 


→紀伊國屋書店で購入