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『死刑』森達也(朝日出版社)

死刑

→紀伊國屋書店で購入

「死刑を語るさまざまな声の記述」

これまで死刑についてまともに考えたことはなかった。本書を読み終えたいまはちがう。さまざまな想念が頭を過る。「死刑をめぐる三年間のロードムービー」と帯にある。死刑という言葉の重さと、ロードムービーのほのぼのした雰囲気は一見そぐわない。著書もその「軽薄さ」は認めている。それでもなお、こういう本があってもいいのではないかと思った。

死刑に関する法律や歴史をおさえつつ、死刑犯のケース、冤罪の問題、犯罪被害者の感情、死刑廃止運動の活動家、死刑囚の弁護人などを取材していく。多くの人が登場する。それぞれが肉声を発している印象がある。

著者の考えも述べられているが、素材のインパクトが大きい。もちろん著者によってセレクトされ、加工を経た素材であり、インターネット上の情報を切り張りしたものとはちがうが、それらを構成して結論を導き出すより、不可視の世界と社会とを仲立ちをしようとする意識が強い。

死刑囚の環境について教えられたことが多かった。彼らは刑務所にいるのではなくて、拘置所に入っているとは知らなかった。死刑囚に与えられる罰はただ一つ死刑の執行であり、それまでは務めるべき刑はないからだ。トイレ付きの四畳半ほどの個室にいて、死刑囚同士のコミュニケーションはない。面会は家族と弁護士以外は許されないし、手紙のやりとりも出来ない(昨年、少し緩和されたようだ)。

ところが、衣食にはある程度の自由がある。食事の制限はなくて、差し入れや自分で購入したものは好きに食べられる。拘置所内に売店のようなものがあって、そこで買えるのだ(その金はどうやって手にするだろうか?)。

服装もそれぞれに任せられる。お仕着せの囚人服があるわけではない。一定の制限はあるがラジオが聴けるし、ビデオを見ることも出来るし、本も読める。就寝時間は決められているものの、電気が消されるわけではないらしい。

これらの説明から、修行僧と入院患者の環境が混ぜ合わさったような状況が浮かび上がってくる。外部との接触は制限されているが、内部での選択はある。外とのコミュニケーションを遮断するのは、管理上の問題もあるだろうが、刑に至るまでの期間を修行のようにとらえる考えがどこかにあるからかもしれない。

刑の執行はその朝に当人に知らされる。伝えてから1時間から1時間40分くらいの間に執行されるというから、心の準備をする間はない。戦後しばらくは数日前に言い渡していたそうだが、告知後に自殺者がでてから、執行までの時間が短縮されたのだ。単に管理上の都合である。この点は改善されるべきだと強く感じた。

刑務官と教誡師を取材した部分は、もっとも読みごたえがあった。元刑務官で著書もある坂本敏夫氏は、拘置所長や処遇部長などと、日々死刑囚に接し、実際に刑も執行する刑務官とは、考え方、感じ方、傷つき方がちがうと語る。

役職にある人にとって、刑の執行は評価のポイントになる。だが、刑務官にとっては苦渋をともなう。彼らの仕事はいつ執行命令が来てもいいように死刑囚の生活を看ることであり、長く過すうちに親族や家族に近い感情が芽生えてくるという。情が移ればそれだけ執行のときが辛い。大変な仕事である。

教誡師をしているカトリック神父Tの発言も印象に残った。彼はこれまで自分が教誡した死刑囚4人の処刑に立ち会っている。みんな落ち着いた態度で感謝の言葉を述べて刑に望んだという。役職者は死亡を確認してハンコを付くと帰ってしまうが、刑務官はその後、精進落としのような会をする。先に上げた処刑への感じ方のちがいがよく出ている。また彼は最後に死刑囚を抱きしめて送るという。人の体温を感じて人生を終えて欲しいと思うからだ。

著者は会う人ごとに死刑を存置すべきか、廃止すべきだか意見を問うている。先の坂本氏は、死刑制度はあっていいが、死刑の執行はなくしたいと述べている。矛盾した言い方だが、私はそれにもっとも共感した。

死を身近に感じつつ生きる時間こそが、人を殺めた者への罰にふさわしいものだと感じられたからだ。それをわたしたちの自由な時間と比較して人権うんぬん言うことは不遜にすら思える。だから制度としては意義がある。ただし最後に訪れる執行については避けられたらいいと思ってしまう。

死刑をもっと生の側面からとらえる視点があってもいいのではないか。著者も取材された人々も、死刑の死の側面にのみこだわって是非を論じているように思えた。

人はだれも死をまぬがれられない。その意味で死刑囚も私たちも同じなのだ。末期癌の患者は、明朝、目が覚めたときに生きているだろうかと思いながら目を閉じるだろう。生まれてすぐに長く生きられないことを宣言された子供は、その恐怖と闘いながら過すだろう。

死刑囚は毎朝、死の瞬間をシュミレーションしている。死が来ることは同じでも、それが他者によって決定され、もたらされる点が私たちとちがう。処刑告知が行われる朝の時間帯は針が落ちてもわかるほどシーンと静まり返るという。そのあと運動の時間が来るが、だれもが顔をほころばせて出てくる。毎日がこんな生と死のせめぎ合いの連続なのだ。

このような極度の緊張と解放が繰り返される生活は、檻の外では到底ありえない。生きつづけるのに非常な精神力がいる。実際、精神に異常をきたす人も出るらしい。

つまり死刑囚は社会で自由に生きているわれわれとはちがう時間を生きているのだ。死が近くにあることで生が押し上げられている。そうした時間の中でこそ、殺された人の味わった恐怖や無念さが想像できるように思える。そこに償いの意味があるように感じる。

冤罪・誤判は必ずあると複数の人が答えている。ということは無実の人が殺される可能性があるということだ。これについてはどう考えたらいいのだろうか。冤罪はあってはならないが、冤罪を絶対的理由にして死刑廃止を主張するのも飛躍しすぎなような気がする。

冤罪の実情についてももう少し説明があってもよかったかもしれない。冤罪は昔は多かったが、いまはそれほどでもないはずだという漠然とした印象があるが、事実はちがうかもしれない。近年になって死刑が確定された死刑囚の中に、無実を主張している人はいるのだろうか。

また無期囚の取材はなされてないが、無期囚と確定死刑囚とでは生き方や生活態度がちがってくるものなのか、そんなことも知りたいと思った。無期囚の平均在所は25年1カ月で、仮釈放されない者もいる。彼らが服役中にどんなふうに心境を変化させていくかも、死刑を知る上で重要なことのように思える。

最後に著者は、死刑を論理的に突き詰めることを止めて情に向かう。死刑に対してどんな情緒を持つのかと自らに問いかける。死刑宣告を受けた若者に会いに行く。彼は9時に就寝だが、毎日布団の中で遅くまで本を読んでいると話す。そんなに本が好きなのと問うとニコニコ笑って、「だって、少しでも遅くまで起きていれば、そのぶん長く生きられますから」と答える。

著者は彼を死なせたくない、敢ていえば本能に近い、と述べ、情緒に溺れていることを自覚しつつ、その情を根拠に死刑廃止の立場を表明する。やや結論を急きすぎた印象があった。

だが、本当に価値があるのはこの結論ではなく、「少しでも起きていればその分長く生きられる」という若者の言葉が書き留められたことなのではないか。思わず沈黙するほどの重みを持っている。それは著者によって引き出され、記されたものである。非常にすぐれた記述者である証だ。彼が書かなければ、だれもこの若者がこんなふうに感じていることを知りえなかったのだから。そのことがなによりも素晴らしいと感じた。