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『GOTH』横浜美術館[監修](三元社)

GOTH

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いろいろあるけど、全部許せる表紙にヤラレタッ

旧臘22日よりまる三ヶ月間開催されてきた横浜美術館「GOTH-ゴス-」展が終わった。記念のトークを頼まれて出かけた日、真冬の荒涼とした風景の只中、美術館前で撮った写真が、当ブログのプロフィール欄に載せた筆者近影である。Dr.ラクラ(Dr.Lakra)が女優クリスティアーヌ・マルテルの美脚をフィーチャーした派手めな作品ポスターの前で、小生、黒ずくめで「ゴス」を気取ってみた。クリスティアーヌ・マルテルの半裸の美肌にブルーで刺青が彫り刻まれていて、故松田修の名著ではないが、「刺青・性・死」を扱うに相違なさそうな不思議な展覧会のストーリー、コンセプトがほぼどういうものか、入口で迎えるこの一作に如実に表れている感じがした。

表面に憑かれていく文化は、そこに生じる表沙汰にならないものをどんどん内側に隠蔽していくしかない。この外なるものを「精神化」される身体と呼び、内に澱のようにたまっていくものを取り残されて悶え呻く昏い身体とでも名付ければ、往生要集や九相詩絵巻さながらな中世ヨーロッパのメメント・モリ [死ヲ忘ル勿レ] のアートに始まり、吉永マサユキがアキバ・ストリートで撮りまくった「ゴス・ロリ」少年・少女の写真まで、一見それらがここに併存するのは何故と思われる展示物にもそれなりに納得がいく。肉塊となって転がり、それこそT・S・エリオットが「生まれ、性交し、死ぬ、生まれ、性交し、死ぬ」と簡単に要約したストーリーに執拗に苦しむ昏い身体が一方で企画の半分を占めるが、ゴス・ロリのコスプレで来館したら割引とかベスト・ドレッサー賞とか、いかにもという誘いにのってやって来たゴス・ロリたちが、それらに直面してどう思ったのか、関心がある。

身体がキーワードであることに間違いないらしいが、兎角ひとつにまとまりにくいこれだけの材料を、ひとつの<物語>にまとめるのにはどうするか、というのが見所の展覧会。というより、展覧会一般が展示物に内在しない物語を<物語>に仕組んでいく政治的な「思想」であることを、我々は知っている。<物語>は何かを生かす代わりに何かを殺す。この生と死のコントラストがメタファーでなく現実に一番はっきりするのが身体であるわけだから、生きる身体、死んだ肉体を材料にする展示は原理的に<物語>をつくり、夥しい生と夥しい死をそこにつくりだす展示(exposition)という営み自体に自己言及せざるを得ない。

1994年夏、町田市立国際版画美術館(企画:佐川美智子)、ついで栃木県立美術館(企画:小勝禮子)で、生と死のコントラストを壮大なテーマにした「死にいたる美術――メメント・モリ Memento Mori : Visions of Death c.1500-1994」展があり、名企画の誉れ高く、大型カタログも傑作と評された。当時、中世の死生観を書かせればこの人と定番だった小池寿子氏が中世のトランジ彫刻について書いた文章を載せ、「死の舞踏」「死と乙女」といったメメント・モリの典型的なテーマがこれでもかと続いて、現代アートにまで流れ込む。中途に「和洋解剖図」のコレクションが挿まれるあたりも抜かりない。柄澤齊北川健次といったぼくよりひとつ下の世代に至るまで実に周到に並べられた大企画だった。少し縁のあった名キュレーター(のちにフェミニズム・アートの仕事で有名になった)小勝禮子さんからこの企画のことで相談され、相手がまさしく死にゆく身体をテーマにした企画ゆえ、ぼくはぼくなりに、生をどこかで殺さなければ<物語>を捻出し得ない「ミュージアムの思想」というものに逢着して、ぜひそのことを書いた拙文をカタログ冒頭に載せてくれと頼み、実現した。ちょうどぼくが夢中だったF1レーサー、アイルトン・セナが謎めいた衝突死を遂げた直後で、セナに献げられたぼくの文章「<エクスポーズ>するいやはて」は、後にぼくの『綺想の饗宴』に中心的エッセーとして載録された。懐かしい。

今回展もまさしくリッキー・スワローのトランジ彫刻に始まり、それをモダニズムの絵葉書や雑誌に移し替えたDr.ラクラの仕事に続く。そして束芋(Tabaimo)、イングリッド・ムワンギ・ロバート・ヒュッター(出産と死の直截なパフォーマンス)、性同一性障害のピューぴる(真の自分を求めての外観の千変万化)が間に入り、吉永マサユキのコスプレ少年少女の写真が入る。自ずから時系列に沿った「死生観」変換史‐物語ができる。間に入った部分は1970年代ならグロテスクないし「グロテスク・リアリズム」と呼ばれた世界で、この大きな物語の一部としてちゃんと貢献している。

もう一人、こういうスケールの大きい企画ができる名キュレーターに笠原美智子さんがいて、かつて「ラブズ・ボディー――ヌード写真の近現代」展(東京都写真美術館、1998年)を成功させた時のことを、今回改めて思い出した。ピーター・フジャーとデヴィッド・ヴォイナロヴィッチのコンビがエイズで衰弱していく自分たちの身体を撮った写真を中世の教会のカタコンベに積み上げられた人骨と並べることで生じる安寧と慰撫の物語力(?)に抵抗ありと、当時ぼくは、身体と生死をめぐるいくつかの展覧会について同じような印象を記したサンダー・L・ギルマンに力を借りて述べた記憶がある。

『夜想』今野裕一氏あたり大いに食いつきそうな展覧会であるが(参考:ART iT「劣化コピーの時代」)、ぼくとしては身体と死生観をめぐるこうした一連の優れた企画として大いに楽しんだ。内に抑えられたものが外に出てくることを“expose”と言う。展覧(exposition)、とりわけ内に秘め隠された身体性とそれを外に昇華した「精神性」の弁証法を問題にする展覧とは何、とこれを機にキュレーター木村絵理子氏のミュージアム観のさらなる深まりを期待して館を去った。

それにしても、小谷真理氏の『テクノゴシック』が銀色、この「GOTH」展カタログがピカピカの金色。金色の表紙に自分の顔が映り、しかもそこに頭蓋骨が透けて映る心憎いリフレクション [鏡] の仕掛けに気付き、いやいや敵もさるものと大いに愉快な一冊ではある。

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