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『シラーの「非」劇-アナロギアのアポリアと認識論的切断』青木敦子(哲学書房)

シラーの「非」劇

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「疾風怒濤」を思いきって「ゴス」と呼んでみよう

ゲーテは尊敬するが、愛するのは誰かと言われればシラーである、というのがドイツ人の口癖だとはよく聞く話だが、一体、いま現在の日本にとって古くて遠いドイツロマン派の劇作家・詩人・歴史家ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)が大文豪だったという「噂」を聞かされても、どんだけっ、である。硬直した社会への抵抗を熱く説く革命文学者と聞くだに、ださっ、である。「疾風怒濤」運動随一の担い手だそうだが、もう疾風怒濤なんて字も響きもなんだかキモッ、である。ケータイ小説こそ新時代文学の息吹などと、かの「ニューヨーク・タイムズ」までが珍妙に褒め讃える我々のブンガク状況の中で、浪漫派、浪漫主義は、完全に死語である。

ひとつには、いわゆる独文学の世界にレベルを保ちつつ啓蒙の気概をも持ち合わせた人物がいないこともある。この2月に川村二郎氏が亡くなって、いよいよその感が強い。そうでもないかも、という動きを当書評の何回か前に少し拾って希望をつないでみせたが、大勢として独文低調の動きははっきりしている。種村季弘の五分の一のスケールの人物でもよい、一人くらい出てこい、というのが本音だが、こんなことを繰り言のように言うのも、ドイツ本国とドイツ語圏における人文学、精神史、文化学が、メディアやコンピュータの浸透を逆に追い風にして、質量ともに未曾有の発展を遂げているからである。このギャップが何ともいらだたしい。

表には出にくいが、博士論文にはなかなか優れたものがある。博論と聞いて即つまらないと感じるのは、まあ当たっていなくもないが、本欄でも実は既に二、三、一般読者にとっても面白い博士論文を取り上げている。

青木敦子『シラーの「非」劇』も、2005年に名古屋大学大学院に提出された博論「時計仕掛けの世界とマリオネット」に加筆して出版に至った大著である。博論タイトルからして此方の種村好みをチリチリ刺激する内容が想像されるが、単行本化された副題「アナロギアのアポリアと認識論的切断」が窺知させるように、博士論文かくあるべしの実に堂々たる学問的体裁も具えている。就職の便益のためと称し、文系博論も理系のそれに負けじと大量生産の悪弊生じ、あきれるようなものが書かれる傾向がある中で、久方ぶりに学問の誇りを感じさせてくれる労作だ。商業ベースに乗るわけないこの大作を、著者を励ましながら出版させた哲学書房社主、中野幹隆氏も流石のものだ。かつて時代の風とさえなった雑誌「パイデイア」や「エピステーメー」の名編集者だった中野氏の名に「故」を付けなければならないのは呆然たる事態だ。中野氏に差し迫った死を知る由もなく氏への謝辞を書き募る「あとがき」に感慨胸に迫るものあり。団塊と少し下の年老いた知的少年に熱くも爽やかな夢の「哲学誌」を次々送ってくれた天才編集者追悼のためにも、青木氏のシラー論を本欄で取り上げる価値がある。

オランダ黄金時代に大流行しただまし絵的静物画の巨匠ヘイスブレヒツの「だまし絵のだまし絵」を表紙にあしらっていることで既に明快なように、フーコーが近代エピステーメー論の主舞台とした17世紀、「表象」に生じた大変動が150年後のロマン派といかに深く共鳴したかを論じる。フーコー『言葉と物』のシンボル的存在、ベラスケスの『侍女たち』をめぐるあまりにも有名な解釈合戦がシラー作『ドン・カルロス』の分析にフル活用されるが、そういったいま現在の人文学にとってとてもアクチュアルなシラー像、「われらの同時代人」としてのシラー像を青木書は存分に提示してくれる。

表紙と帯の関係も一寸だまし絵になっているあたり、中野氏のウィットを懐かしめるが、その帯に「本書はシラーのテクストを触媒に激発する21世紀思想の化学反応の場である。神の模写から、崇高な主体への構造変動を、解析しつくした力業。」とあって、内容これに尽きる。という以上に、「親和力」など「化学」に思想最大のメタファーを見たドイツロマン派の核芯を知る中野大人のウィットの鮮烈を感じた。

カントを読み「崇高な主体」にめざめることでシラーの劇作に生じた、前期と後期との「認識論的切断」を言う。「前期」を後期成立に至る過程という扱いから独立させ、新興市民階級が否応なく孕む両義性に見合ったものとしての悲喜劇ごっちゃ(もはや「悲」劇でなく「非」劇だとは、そういう意味)の「ゴシック的混合(die gotische Vermischung)」の徹底した分析が、シラーを現代演劇に一挙に近づけてくれる。「眼差し」のありようでいかようにも見える世界の混沌に悩み、「視」そのものを具体化させた演劇というもののさまざまな仕掛けを通して、まるで17世紀バロック劇場の人間のようにあたふたと振舞った「前期」のシラーの方が、カント体験以降の「主体」を云々する近代的シラーよりはるかに豊かに思えるという結論また、シラー好みの「どんでん返し」と言って言えなくもない。

「眼差し」をキーワードに、「ピクチャレスク」や「イリュージョニズム」への深い理解を武器にした新しい視覚文化論的な演劇論ということでは、フランス古典主義演劇をめぐる秀才、矢橋透『仮想現実メディアとしての演劇』と双璧であろう。副題にある「アポリア」をパラドックスと言い換えてもよい内容で、貴族と市民、善と悪といった対極が間断なく逆転する。パラドックスの演劇が問題なのであり、パラドックス関係を何冊か取り上げて調子が上がってきたその大喜利に、ドンとこの大冊で仕上げをしよう。演劇と「視」という問題に引っ掛けて、いよいよ本欄の本命たる視覚文化論の面白い本、大切な仕事の方に、以下徐々に目を向けてみる。

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