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『詩集「三人」』金子光晴、森三千代、森乾(講談社)

詩集「三人」

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名もなき家族が残したもの

2007年、東京の古書店金子光晴の未発表の詩集が見つかった。 光晴と、妻である作家・森三千代(愛称・チャコ)、そして息子、森乾(けん。愛称・ボコ。のちに仏文学者)の三人の詩が、B6判200ページ余(厚さにしておよそ2cm)のノートに38篇手書きされたもので、手にしたのは『評伝 金子光晴』などの著書もある金子光晴研究家の原満三寿(まさじ)さん。外箱もあって、写真で見るとその背には「詩集 三人 金子光晴」の文字、表には、中国の切り絵のように見える赤く小さなイラストが三つ描かれている。光晴の研究者にして初見だったとのこと、そしてよりによって研究者の手に、空から羽毛が舞い落ちるようにそっとそのままの姿で降りてきたようだ。

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乾さんの妻・登子(たかこ)さんが筆跡をあたって、外箱、そして黒インキで書かれた本文の全てが光晴のものと確認された。32篇が光晴の作品、うち7篇が『蛾』に、1篇が『女たちへのエレジー』に、3篇が『金子光晴詩集』(角川文庫)に、それぞれ大小の改作がなされて収録されている。その他の光晴の作品及び三千代さんと乾さんの作品は、未発表のものらしい。

1944年、喘息持ちの一人息子・乾(25年生)に召集令状が届くと光晴は、密閉した部屋に乾を寝かせて松葉をいぶしたり水風呂につけたりして喘息の発作を誘発し、召集から逃れさせた。そして、いくたびかの旅・放浪を、ひとり、ときに妻と繰り返してきた光晴はついに家族で山中湖畔に疎開して、炬燵を囲み日がな過ごす濃厚な「家族」の時間を得る。ノートに書きとめたのはその暮らしのなかでのこと、ノートの汚れは寒さで凍ったインクを溶かすのに光晴が苛立った痕跡ではないかと、原満三寿さんは言う。このノートをもとに、原さんが解説を付し、光晴の絵を随所に配して、坂川事務所が装幀している。

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『現代詩読本3 金子光晴』(思潮社 1978)の年表によると、疎開していたのは1944年12月〜1946年3月。疎開といって逃れたのは、戦況であり世間である。疎まれてきた世間が戦況となって、逃れるべきものとなる。これまではじき飛ばされるようにして散り散りになっていた一つの家族が、台風の目に突然入り込んだようにして炬燵を囲む。凪ぎの時に溺れているのか。あるいは、洗面器がうけとめる水やカレーや尿が醸す音をして「人の生のつづくかぎり/耳よ。おぬしは聴くべし。//洗面器のなかの/音のさびしさを。」(「洗面器」)と書いたように、この奇跡の時に必死で耳を傾け書き留めていたようにも見える。

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そのいきの臭えことと始まる「おっとせい」、奴らに食をえらぶ神経なんてあってたまるかと書いた「鮫」、恋人に、とうとう僕はあなたのうんこになったと告げた「もう一篇の詩」。光晴と聞いてわずかに私の頭に浮かぶどんなフレーズも、『三人』の著者に重ならない。だがこの詩集を静かに読むのに、著者やこの家族の年表を知るのは必要のないことだ。光晴の名にこの詩集を手にしたのではあるけれど、読んでしまえばそれは光晴でなくてもありうるように思える。極めて個人的なできごとに気恥ずかしさをまとい出力されたある家族の詩集だが、これから読み継がれたあかつきに、いつか無名性を宿すようにも思う。あまりにも有名な、そしてあるいは名もなき家族が、戦中に残した愛おしい詩集である。

もしも小学校の先生になり、かわいい僕ちゃん嬢ちゃんに「家族のことを考える」授業をするならば、黒板に大きくひとつ、この詩を描きたい。



父はそつと立つてのぞきにゆく

チヤコのへやに。

この淋しさを頒ってもらひに。

机の前にしょんぼり坐る

チヤコのうしろ姿は

もつともつと淋しさうだ。

父は二人分の淋しさを抱いて

言葉をかけずひきかへす。

あゝ、そのときのことをおもひやる。

その淋しさはどんなかとおもふ。

金子光晴「レコードの唄」の一部)



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家族詩集であること、そして「三人」というタイトルに、詩人・奥成達が子供の頃、兄弟四人で作っていたガリ版刷りの冊子「よにん」を思い出します。創刊にあたって長兄が記していた文章が好きなので、ここに一部引用します。「はずかしさに、みんな顔を少しずつ赤くしながら、思い思いのうたや詩や散文を綴っていました。……いたって幼い、そして時には生意気な、文や詩が、ことばが出て来ますけれど、読者はそれを笑いながら、そしてぼくら四人の兄弟の姿を思いやりつつ読んでくださると、ぼくらは、とてもうれしいし、それはまた、ねがいでもあるのです」(1954年。参照:奥成達資料室)。


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