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『わが輩は「男の娘」である!』いがらし奈波(実業之日本社)

わが輩は「男の娘」である!

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「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的、『妄想少女オタク系』以上にリアル」


「男の娘」とは、「2次元用語であり、女の子のように可愛い女装少年を指す」言葉であり、本書は「無謀にもそんな次元の壁を越えようと日々努力する、二十代後半の、今でも「少年ジャ○プ」を愛読しているひとりの男の話」である(P5)。

 その「男」とは、実は、名作『キャンディ・キャンディ』で知られる漫画家いがらしゆみこ氏の息子であり、元ジャニーズJrでもあるという、いがらし奈波氏のことである。

 本書は、エッセイ風のマンガ仕立てで、元々小さいころから女装に関心のあったいがらし氏が、やがてオタク趣味の彼女と付き合うようになる中で、彼女の服を借りて本格的に女装にのめりこむようになり、その後、様々な人と出会う中で、現在の自分の立場を確立までを描いた著作である。

 マンガ仕立てで非常に読みやすいが、その内容は刺激的であり、読後の感想は、表題のとおり「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、『妄想少女オタク系』以上にリアルだ」というものであった。以下、この点を説明したい。

 『ジェンダー・トラブル』とは、いまやジェンダー論の古典とも呼ぶべきジュディス・バトラーの名著である。個人的なことを述べるならば、評者は大学院の修士課程に入学直後に、ゼミで輪読することになり、その難解さに頭脳がトラブルを起こしそうになったことを記憶している。それはさておき、バトラーが述べていることは大意以下のとおりである。

 すなわち、ジェンダー=社会的な性差とは、セックス=生物学的性差とは異なって、人為的、社会的に構築されてきたものと考えられてきた。だが、バトラーに言わせれば、セックス=生物学的性差と思われてきたものもまた、ジェンダーなのだという。生物学的な特徴を取り上げて、それを「男か女か」という分かりやすい二分法に落とし込んでしまうふるまいそのものが、社会的に構築されてきたものなのだ(いくつかの社会には、「第三の性」と呼ばれるジェンダーカテゴリーが存在することを思い起こせば、理解できよう)。

 とするならば、「女性だから・・・」「男性だから・・・」といったような、固定化された立場をあてにして社会的な性差の解消を訴えることは、非常に困難にならざるをえない。繰り返せば、「女性」「男性」といった立場そのものが、実は社会的に構築されたものに過ぎないからだ。

 よってバトラーの主張は、その書名にも表れているように、既存のジェンダー論にトラブルメイキングをなすことがその主たる目的であったといえる。さらにその後は、クイア理論と呼ばれるような、よりラディカルなジェンダー論の発展を導くこととなるが、その中で、「女性」や「男性」というより、もっと性的なマイノリティの人々から注目を浴びることとなっていった。

 だが私自身のことを振り返れば、『ジェンダー・トラブル』は、そのトラブルメイキングな内容とは裏腹に、長らく、濃密なリアリティを持って受け取ることができない著作であった。率直に記せば、それはバトラーを強く支持していた人々、性的マイノリティという立場を身近に感じることができなかったからである。

 そして、まさにこの点においてこそ、私には本書が『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的で、トラブルメイキングなものであると感じられるのだ。

 すなわち、あまり身近に感じることのできなかった性的マイノリティという存在が、本書を通して、実は、どこにでもいるごく普通の(というには、著者の育ちは多少特殊かもしれないけれども)存在なのだということが理解できたからである。

 では、なぜ本書を通してこそ、より身近でリアルに感じることができるのか。この点をあるマンガ作品と比較して述べてみたい。

 かつて評者は、この書評ブログの中で『妄想少女オタク系』というマンガを取り上げた。それは、腐女子である女子高生浅井留美と、彼女に行為を抱いてしまった普通の男子高校生阿部隆弘とのラブコメなのだが、いくら告白されても、隆弘とその親友のBL的なシーンばかりを思い浮かべてしまう留美や、あるいは隆弘の親友である美少年に好意を抱いてしまう硬派な柔道部の先輩など、正統派の少女マンガにはなかなか登場しがたい新しいキャラクター設定が魅力的なマンガだと評した。

 また、こうした思考実験が出来るのも、フィクションとしてのマンガの強みと言えるだろう(この点において、『妄想少女オタク系』が名作であるという評価は微塵も揺るがない)。

 しかしその一方で、マンガであるがゆえに(むしろそれがマンガのよさでもあるのだが)、登場人物には、キャラクターの一貫性が求められ、極力、矛盾のない振る舞いが求められることになる。その分だけ、結局のところ、実在はしないような理想化された存在になってしまうのが、マンガのキャラクターの宿命でもあるのだ。

 そして、この点においてこそ、事実を元にしたエッセイ風マンガである、本書のほうがリアリティにおいては勝るのだ。

 

 というのも、「男の娘」である、いがらし氏のふるまいは、一貫性を持っているどころか、むしろ矛盾に満ち満ちているからである。

 たとえば女装に関心があって、世の女性よりもきれいにそれを着こなしながら、セクシャリティにおいては、意外と男性としての保守的な一面も持ち合わせていたりする。ロリコンであったり、あるいは彼女の浴衣姿に欲情して、セックスしてしまうところなどはその典型と言えるだろう。

 こうした一貫性のないふるまいは、その周りの人々にも共通している。たとえば、ニューハーフのミヤちゃんは、これまたきれいな女性としての容姿を装いながら、氏の彼女であるクルちゃんに対して、好意を抱いているようなしぐさを見せる(作中には、どうもバイセクシャルらしいと記されているが)。

 いずれにせよ、新たなジェンダーを切り開いていくような存在に見えながら、意外と内面のセクシャリティは保守的だったりと、この矛盾に満ち満ちた様子が、かえってリアルなのだ。そもそも、人間とはそのような矛盾に満ち満ちた存在なのであろう。

 よって、本書を読み進めていると、たびたび頭を抱えてしまうことになる。

「あれ?この人のジェンダーは、男だっけ?女だっけ?セクシャリティはなんだったっけ?」とたびたび混乱に陥りながら読むことになる。だが、この体験は決して不快なものではなく、むしろ頭の中の固定観念を揺さぶる、心地良いものですらある。

 刺激的でありながらリアルでもある本作を、そんな心地良い混乱の感覚を味わいながら、ぜひ多くの方にお読みいただきたいと思う。


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