『いのち運んだナゾの地下鉄』野田道子 作 /藤田ひおこ 絵(毎日新聞社)
「新しい「空襲」の語り継ぎ方として」
3月11日で、東日本大震災から1年が経過した。
その記憶を風化させてはならないと思うし、メディアが大々的に取り上げることで語り継いでいくことも重要だろう。一方で、少し気にかかることもあった。
それは、67年前の3月10日に起こった東京大空襲の扱いが、相対的に小さくなってしまったことである。
人間とは忘れる生き物であり、だからこそ前に進める部分もあるとは思うが、忘れてはならないような語り継ぎ方という工夫も時には必要だろう。
本書、『いのち運んだナゾの地下鉄』は、児童向けの短い読み物ながら、そうした可能性を感じさせてくれる著作であった。
モチーフとなったのは、1945年3月13日の大阪大空襲の夜に、記録には残っていないものの、地下鉄が走り、被災した人々を救ったというエピソードである。
正直にいえば私自身は、一人の鉄道ファンとして、このエピソードに惹かれて本書を手に取ったのだが、読み進めていくうちに、いろいろと考えさせられた。
いくつか、感じた点を記してみたい。
まず、記述が淡々としていて、過剰に悲惨でないところがかえってリアルである。話はやや平板で、明確なクライマックスのないところが今風でもある。
空襲を描いた文学作品では、人々が焼け死んでいく様子を強調することが多いが、本書では、主人公の三人姉妹の母は死ぬものの、そのシーンばかりが強調されることがない。
むしろ逃げる途中、焼け残った家に住む見知らぬ老夫婦に声をかけられて休んでいく際には、こたつにはいってまんじゅうまで食べているのだ。
そして姉妹の避難行動の仕方が、また興味深い。関東大震災や東京大空襲の際には、パニック状態で逃げ惑った人々が押し合いへしあいとなり、そこを火災が襲ったことが知られている。しかし彼女らは、長女を中心に自己決定的に行き先を決め、独自に行動して助かるのだ。それは、あたかも三陸地方に伝わる「津波てんでんこ(津波が来たら、自己決定で逃げるべきである)」という言い伝えにも通じるものがある。
だが正確にいえば、完全に自己決定だけで助かるわけではない。自己決定的に行動したことで、たまたま動いていた地下鉄に乗ることができ、安全な場所へと批判することができたのだ。
ここで気づくのは、空襲を行った爆撃機を生み出したのと同様に、いのちを救った地下鉄を生み出したのも、近代の科学技術だということである。こうした近代の両義性が垣間見える点も興味深い。
そして、そこには今後の防災対策を考えていく上でのヒントも垣間見えよう。
それは、「空襲」や「津波」の被害経験を、文学的な語り口だけに閉じ込めていてはいけないということであり、別な言い方をすれば、こうした被害を天災ととらえてはならないということでもある。
よく指摘されることだが、空襲についてもそれがあたかも天災のようにとらえられて、許し難い大量殺戮としての追及や、被害を防ぐための社会的対策が忘れられやすい。
今回も、震災そのものについては自然災害であっても、原発事故に代表されるように、被害を大きくしたのは人災の部分が大きいと言わざるを得ない。そしてその一方で、原発を生み出したのと同様に、それを乗り越えていくのもまた、科学技術(あるいはそれを生み出す人の手)によらなければならないのだ。
こうした状況で今後を考えていくためには、悲惨さや感動的なエピソードを、感情的に強調するだけではいけないだろう。
緊急の事態に立ち至ったときに、いかにパニックにならずに「てんでんこ」な自己決定を個々人が成し得るか、そしてそれ以前から、近代の科学技術を暴走させることなく、いかに役立つものとして使いこなしうるか、社会的な対策を考えていくことの方が重要であろう。
本書は、こうした「ポスト311」とでもいうべき社会のありようを十分に意図して刊行されたものであるように思われるし、プロローグでも、東日本大震災の話から始まって、生き延びた姉妹が久々に再開するシーンから本題へとつながっていく。
私自身、実体験はしていないけれども、東日本大震災当夜に帰宅難民となり、徒歩で帰宅しながら考えていたのは、東京大空襲の混乱はもっと激しいものだったのだろうな、ということだった。
「ポスト311」においても、空襲を語り継ぐための新しい可能性を感じさせる著作として、本書を評価したい。