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『ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争』松谷創一郎(原書房)

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争

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「女子コミュニケーションの通史として」

 女子会という言葉がある。男子抜きで女子だけで気ままに集まる会合を意味しており、今や多くの人が知ることとなった言葉だが、先日、ツイッター上でその裏側の定義ともいうべきものを見つけて、思わず笑ってしまった。すなわちそれは、「欠席裁判でいない女子の悪口をみんなで言い合う会」というものであった。

 この定義からも分かるように、女子のコミュニケーションにおいては、多数派(この場合、女子会の参加者)と少数派(同じく欠席者ないし非参加者)の間に線を引いて、前者は後者のことを「変だよね、変わっているよね」と噂することで同調圧力を保ち、後者も前者のことを「周りに流されてばかりでつまらない人たち」と批判することで独自性を担保するという、いわば批判し合っているはずの両者の「共犯関係」ともいうべき関係性が存在しているということが重要なのである。

 そして本書『ギャルと不思議ちゃん論』において、著者の松谷創一郎が看破したのは、女子コミュニケーションを理解する上では、その内容よりも、むしろこうした「共犯関係」ともいうべき形式の方が重要であるということであった。すなわち、「多数派VS少数派」という形式のほうが長らく保たれてきており、その間では、コミュニケーションの内容がまるで180度入れ替わってしまったりもしてきたのだ。

 具体的に言うならば、1980年代に至るまでは、前期近代的な良妻賢母思想がほぼ残存し、多数派の女子とは、非性的な存在としての少女のことであり、むしろ性的に目覚めていたものたちは少数派として「不思議ちゃん」扱いされていた。

 それが、性愛的な快楽が席巻する1990年代を迎えると、むしろ性的に目覚めた(コ)ギャルたちこそが多数派に、そして少数派の「不思議ちゃん」こそはむしろ非性的な存在へと入れ替わっていくこととなったのである。

 こうした「多数派VS少数派」図式は、きわめて強固に、それも本書のサブタイトル(「女の子たちの三十年戦争」)が示すように長きにわたって、女子コミュニケーションを規定してきた。

 だが今後の展開については、さらに興味が惹かれるところもある。たとえば、著者も最後に示唆しているように、最近注目されている、きゃりーぱみゅぱみゅなどは、どちらかといえば「不思議ちゃん」に分類されるものと思われるが、かといって、かつての「不思議ちゃん」ほどマイナーではなく、むしろかなりメジャーな存在だと言ってよい。

 このように、「多数派VS少数派」を線引きするような共通の価値観(例えば性愛至上主義など)が弱り、個別細分化が進んでいくと、果たしてこの図式がどこまで続いていくのかという点については、疑問が生じてこざるを得ない面もあるし、事実そうした象徴とも言うべき女子たちが出現しつつある。

 しかしながら、こうした先々への視線を見開いてくれる上でも、そしてこれまでの女子コミュニケーションの整理された通史という点においても、本書は一読の価値のある著作といえるだろう。


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