『凍りの掌―シベリア抑留記』おざわゆき(小池書院)
「記憶をめぐる情報戦」
本作は、作者の父親のシベリア抑留についての語りに基づいて構成されたマンガ作品である。50万人とも言われる日本人が抑留され、多数の死者を出したこのできごとについては、おそらくその重大さと比べると、体験者の手記なども一定数刊行されているにも関わらず、人々の話題に上ることが少ないのではないだろうか。
その点で本作は、やさしげなその絵柄とは対照的に、淡々と記された過酷な事実が、読者の記憶に強烈に刻まれざるを得ない、貴重な存在となっている。とりわけ60年以上も前の風化しつつあるできごとを、父親にどうにか思い出しつつ語ってもらい、それを数少ない資料と照らし合わせながら再構成していった、作者の努力には、素直に敬意を払わずにいられない。
さて、シベリア抑留が未だになぜ話題に上りにくいのか、という点については、いくつかの理由が考えられるだろう。一つには、何よりも抑留者たちが帰国する際に、ほとんどの物品を没収されたということが大きいといえよう。後々に語り継ごうと思っても、それを表す、何か物的な証拠や資料がなくては、説得的な語りを構成しづらくなってしまう。
またもう一つには、それと関連して、そのできごとを示すシンボルが存在しないということも指摘できよう。原爆の被害ならば原爆ドーム、ナチスのホロコーストならば強制収容所跡が残されているが、日本社会の中で、シベリア抑留の記憶を語り継ぐための、特定の場所というのはあまり存在していない(しいていえば、作中でも出てくる通り、帰国時に到着した舞鶴港ぐらいだが、それはシベリア抑留そのものの記憶を語り場所ではないだろう)。それゆえに、何者かの意図によるところも、あるいは意図によらないところも持ち合わせながら、シベリア抑留は、人々の記憶に残りにくいできごととなってしまっていた。
こうした状況下にも関わらず、本作はシベリア抑留の体験そのものだけでなく、その前の徴兵の段階から、そして帰国後の体験までを描き出し、また過酷な体験の中でも、ごくわずかながらの幸運なできごとにも触れられている点で、実にバランスの良い内容となっている。とりわけ、体験者の一方的な語りではなく、作者である若い世代の人物が聞き取る形で再構成しているので、この出来事を実際には体験していない人々にも理解しやすい ものとなっている点が評価に値しよう。
評者自身がもっとも印象に残ったのは、過酷な強制労働の惨状もさることながら、途中で共産主義に感化された一部のものたちが、突然アジテートをはじめ、またそれに多くの賛同者が出て、抑留者内のそれまでの力関係が変わっていくところである。かといってそれは、多数の民衆が一部の権力者を打倒するような「民主的な革命」などではなく、戦前はファシズムに同調していたものたちが、今度も「空気」を読んで新たなイデオロギーに同調したということに過ぎなかったというところを実に的確に描き出している。
さらに、帰国後も抑留者たちがいわれのない差別的な待遇を受けたという証言も貴重だ。作者の父親も、左翼的な思想を散々に疑われ、職に就く際にも、あれこれの差別を受けたのだという。
よって、強制労働という体験の過酷さもさることながら、結局のところ、人々のふるまいが、戦争という体験を通しても、あまり反省的ではなく、変わっていないということをまざまざと教えてくれるところに本作の最大の魅力がある。
またその意味で、このできごとをどうにか記憶から風化させずに、語り継いでいくための努力を続けていかなければならないという点において、戦争は未だに終わっていないのだと改めて感じさせられる。年長世代だけでなく、むしろ若い世代を含めた、多くの方にお読みいただきたい作品である。