『鬱ごはん』施川ユウキ(秋田書店)
「個食化した自己」
本作は、主人公である就職浪人生・鬱野たけしが、一人ぼっちで鬱鬱としながら食事をとるそのプロセスばかりを描き出したマンガである。
今月(2013年7月)に紹介したマキヒロチ氏の『いつかティファニーで朝食を』(新潮社)と同様に若者の食事光景を扱った作品だが、比べるまでもなく、本作の方が圧倒的に暗い。
だが、『いつかティファニーで朝食を』が、28歳女子たちの自己の再生というリアリティを描き出した作品とするならば、本作もやはり説得力のあるリアリティを描き出した作品と言わざるを得ないのだろう。
前者が、(朝食)女子会を開ける程度に友だちに恵まれているのと比べ、本作の主人公にはめぼしい友だちがいない。その上、内定が決まらないままに大学を卒業して就職浪人生活に入ってしまったため、日常生活のほとんどを孤独に過ごさなければならない。
それでも、どうにか一人の人間の生活が営みうるのは、まさに現代の日本社会が徹底して個人化しているからなのだろう。いまや、ほとんどのことを、他者の手を煩わせることなく、自分だけですることが可能となっている(コンビニやスマホなどはそのための必須のインフラである)。
だがいかに個人化した社会であっても、否応なしに「他者(ないしは他の存在)」と関わらなくてはならない行為もわずかに残されており、その代表こそが食事といえる。
「他の存在の命をもらって食事をしている」といった宗教的なメンタリティにまでならずとも、自分の肉体に対して、外部から物体が物理的に入ってくるプロセスは、やはり「他者」とのかかわりを通して、自己の存在を見つめ直させる機会とならざるを得ない。つまり食事こそ、個人化(した自己)と向き合わされる再帰的な過程なのだ。
だから本作で面白いのは、食事中に主人公が繰り広げる自己との対話だ。他に誰もいない部屋の中で、黒猫の形をした「妖精」と主人公が繰り広げる対話は、まさにG・H・ミードのいう「主我と客我」の概念を思わせるが、それが食事中にこそなされるというところが、まさに現代的なのだ。
現代社会における個食化という問題点を指摘した著作としては、岩村暢子氏の『変わる家族 変わる食卓』(勁草書房)などが知られているが、本作は、個食というプロセスそのものの内実を深く描いたものとして興味深く読める。
決して、明るく元気づけられるような内容ではないものの、深く考えさせられる作品として、本作をお勧めしたい。