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『「ゆるく生きたい」若者たち 彼らはなぜ本気になれないのか?』榎本博明 立花薫(廣済堂出版)

「ゆるく生きたい」若者たち 彼らはなぜ本気になれないのか?

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「「ゆるく生きたい」とは何か?」

 本書(榎木博明・立花薫『「ゆるく生きたい」若者たち―彼らはなぜ本気になれないのか?』廣済堂新書、2013年)は、心理学の専門家二人が「ゆるく生きたい」という最近の若者たちについて考察した興味深い読み物である。「ゆるく生きたい」という意味は、ある程度の年齢以上の者にはわかりにくいが、読み進むにつれて現代の日本社会が生みだした現象であることが次第に明確となってくる。

 「ゆるく生きたい」をとりえあず「本気を出さず、失敗を恐れる」心理として大雑把にとらえてみよう。著者たちは、最近の若者たちを観察して次のように述べている。

「小さい頃から習い事に通う子が多い。ピアノとか英語とか。スポーツをするにも、水泳教室とかサッカー教室に通う。自分たちで勝手に球技をしたり、鬼ごっこをしたりして遊んでいた時代と違って、あらゆる生活空間が管理されている。

 遊び場にしても、ドラえもんに出てくるような空き地で遊ぶというようなことがない。児童公園とかだれかの家とか、スポーツ教室とか、管理された空間で遊ぶことが多い。

 勉強するにも、塾に通うのが一般的になっている。かつてのように自分で本屋に行って役立ちそうな参考書や問題集を買って、自分で計画を立てて家で勉強するというのではなく、塾に通って与えられた教材をやればいい。参考書選びや問題集選びに頭を悩ますこともないし、勉強の仕方で悩むこともない。塾の先生の指示に従って勉強する姿勢が身についている。」(同書、19ページ)

 最近の若者たちはこれほど「自発性」がなくなってしまったのだろうか。「安全」な道を進むように小さい頃からしつけられているとすれば、ともかく自分の好きなことをがむしゃらにやってみて失敗しても悔いはないという一昔前の「勇ましい」若者が極端に減ってきたということだろう。著者たちも、「ムキになって頑張らなければ、失敗してもかっこ悪い姿をさらさずにすむかもしれないが、充実感も爽快感も得られない。味気ない時間が流れるだけ。その味気ない毎日に退屈しないのだろうか」と疑問を呈している(同書、21ページ)。

 驚いたのは、企業の管理職の人が若手社員に新しい仕事を指示したとき、「この仕事は将来の私のキャリアにプラスになりますか?」と聞き返されたことがあるという話だ。これは必ずしも企業内だけの話ではないだろう。どこの世界でも、「これは将来のためになるのですか?」という類の反応を示す若者たちが増えているに違いない。若者たちは、しゃれた言葉を使うと、「キャリア・デザイン」に特別の関心がありそうなのだが、最初から「これが何の役に立つのか」と思うだけでなく上司に聞き返すような者は、私たちの世代にはほとんどいなかった。

 ところが、ある心理学者の調査によれば、70%の人々が自分のキャリアが予想外の偶然の出来事に左右されてきたと答えているという(同書、24ページ参照)。自分の経験に照らし合わせても、なるほどと思わせる数字である。しかし、若者たちは、そうは考えないらしい。

「最近の学生たちを見ていて納得がいかないのは、この科目を取ると将来何の役に立つかというようなことを気にすることだ。「何の役に立つか」が気になる。そんな姿勢で勉強を楽しむことなどできないのではないか。わからないことがわかるようになる。それが学ぶ喜びだ。学ぶことそのものが楽しいのだ。・・・・・・

 最近の大学では、シラバスというものが導入され、各科目が何の役に立つか、それを学ぶことでどんな成長が期待できるかが明示されるようになっている。そんなものがあるために、学生たちは学ぶ喜びを奪われつつある。そんな気がしてならない。・・・・・・

 功利的なことを考えずに、ただひたすら目の前の課題に没頭するしかなかった時代のほうが、勉強でも仕事でも充実して楽しめたのかもしれない。」(同書、24-25ページ)

 さらに、著者たちは、若者たちが「叱られる」ことを異常に嫌がる傾向があると指摘している。なかにはミスを注意しただけで言い訳をしたりふて腐れた態度をとったりする者がいると。これを心理学では「リジリエンス」(復元力)が乏しいと表現するようだ。つまり、「挫折や傷つきから立ち直る力」が欠けているということだ(同書、27ページ参照)。

 厄介な時代になったものだ。著者たちは、「ゆるく生きたい」若者たちの特徴を、「未熟さの自覚→克服→成長」という「成長のプロセス」を身につけていないとも表現している。

「等身大の自分を自覚できる人は、小さい頃から何度も挫折を味わっている。自分にもっていたイメージがガラガラと崩れるたびに、それを受け止め、理想の自分に近づこうと成長のプロセスを歩んできた。こうした心の筋トレは、小さなことでは傷つかないたくましい精神を作っていく。

 ゆるくだけ生きてきた人は、成長のプロセスを避け、今の未熟な自分をみないようにしてきたから、理想の自己像をそのまま自分だと思い込んでいる。根拠のない自信を成長につなげていくことはできない。」(同書、42-43ページ)

 ここまで読んでくると、「ゆるく生きたい」若者たちに「自己愛的行動」をとる者が多いという指摘も納得がいく。「自己愛」自体は病的ではなく誰もがもっている正常な心理だが(「自己愛」がなければ、ストレスの管理に失敗し、精神状態を悪化させかねない)、著者たちは、「ゆるく生きたい人は、傷ついたときだけでなく、ふだんから自己愛に頼ろうとする傾向がある。その心のクセが、彼らを幸せや成功から遠ざけている」という(同書、68ページ)。冒険を恐れ、失敗することを異常に恐れる若者たちの特徴が次第に見えてきた。

 「ゆるく生きたい」若者たちが抗うつ薬が効きにくい「新型うつ」になりやすいというのも肯ける。現代社会でストレスや不安に悩まされていないひとを探すほうが大変に違いないが、ストレスから解放されるためにとる行動のパターンとして、「問題中心対処」と「情緒中心対処」の二つがあるという(同書、137ページ参照)。「問題中心対処」とは、何が問題であり、それを解決するにはどうすればよいかを考えて実行するタイプの行動だ。それに対して、「情緒中心対処」とは、問題がなくなってくれればよいとか、誰かが助けてほしいとか、要するに、問題解決から目をそらすタイプの行動である。前者は「新型うつ」にはなりにくく、後者はそうなりやすいというのもすぐに察しがつくだろう。

 ただし、著者たちは、「甘え」自体を否定しているのではない。「甘える」とは「許される」ことでもあるので、人と人の間で適度な強さで相互に作用するなら、人間関係にとっての「潤滑油」となることを認めている。しかしながら、問題は、「ゆるく生きたい」若者たちが、自分は甘えたいが人からは甘えられたくないという、「甘えのバランスを欠いた自己愛過剰な態度」をとりがちだということだ(同書、152-153ページ参照)。

 若者に触れる機会の多い大学教師としては、彼らの大半が「ゆるく生きたい」と思っていると想像したくはないが、一昔前よりは確実に増えていることは認めなければならないだろう。「ゆるく生きたい」若者たちに日々接している著者たちが具体例を挙げながら丁寧に叙述した内容には説得力がある。企業の管理職のひとも彼らとどのように付き合えばよいかについて多くの示唆を得られるだろう。「現代社会の病」であると一言で終わらせないで、本書を読んでみることをすすめたい。

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