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『偶然からの哲学』(未邦訳・未英訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 2004, <I> Philosopher par accident </I>, Galiée</font>

Philosopher par accident

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●「<技術の問い>と<哲学の問い>」

 ベルナール・スティグレールの哲学の投企は、主体と客体、人間と環境、存在と時間の関係を先立って定立する(前‐定立)、人工器官、補綴、代補、すなわち技術へと向けられる。スティグレールは、その起源から至る所で哲学が技術を絶えず否定的に捉えてきたという形而上学的歴史を脱構築することによって、技術の問いを、哲学の本源的な問いとして提起する。それは、哲学の問いを、哲学そのものが忘却し排除し隠蔽してきたそれ自身の起源、つまり、すでにそこにある既現的な技術の問いを基盤にして、全体として辿り直し、解体し、再構築することを意味する。この問いは、情報テクノロジーによって、現存在の意識、時間が文化産業化され、方向喪失が生み出されつつある現代において、時代から要請された不可避の問いである。本書は、スティグレールとエリー・デューリングとのラジオ・ダイアローグによって組み立てられた、この技術と時間の存在論哲学への入門的補遺である。

 スティグレールは、哲学の問いを、ギリシア的、さらにアテネ的な技術の問いから改めて取り上げる。その隠蔽された起源、技術は、ソクラテスに言葉を与え、ソフィストによるパロールの弁論術的使用を告発するプラトンディスクールと共にある。プラトンは、超越論的な内的想起=アナムネーシスを認識論的本質とし(『メノン』)、技術によって支持された人工的な外的記憶=ヒュポムネーシスを忘却の要因として規定した(『パイドロス』)。ここで、生きた記憶や存在、真実は、技術や生成、忘却と対立させられることになる。しかし、スティグレールは、エピメテウスの神話のなかに(『プロタゴラス』)、技術こそが忘却を代補するものであること、記憶がつねにすでに技術そのものであることを見出す。なぜなら、死すべきものとしての人間は、エピメテウスによって「偶然的に」忘却され、プロメテウスによって「遅ればせに」技術が与えられることで、その性質の欠失が補われ、形作られたからだ。現存在のアナムネーシスはヒュポムネーシスによってつねにすでに支持され、技術性や事実性、前定立性や歴史性といった存在の境位によって規定されているのである。ジャック・デリダが示した通り、エクリチュールのように外在化された記憶が、知や思考を編制し、現存在と存在の布置を条件づけてきたのだ。この技術論理=テクノロジーをめぐる議論は、人間の本質を、生命体の技術的外在化の過程であると定義した人間論理=アントロポロジーにおいて確認されるだろう(ルロワ=グーラン)。

 人工器官によって外在化され組織化された物質が、遺伝的でも経験的でもない、現存在の第三の記憶(後成系統発生的記憶)を構成する。そして、問題の伝達を可能とする技術的な記憶によって、文化が組み立てられる(技術は文化の可能性の条件である。ハイデガーがいうように、技術は文化の本質なのだ)。スティグレールによれば、人間の後成系統発生の状況を基礎にして3、4万年前に記憶技術が登場し、新石器時代以降、それはエクリチュール(記数法)となり、紀元前7世紀頃には西洋を創立することになる。それは、ギリシアにおいてアルファベットという文字が登場し、都市が構成されたことを意味する。アルファベットとは、思考という過ぎ去るものに正確に改めてアクセスすることを可能にする、つまり過去を正確に定立する(正‐定立)、外在化された痕跡の記憶の総合にほかならない。記憶としての技術は、時間の物質的把持、技術的特性によって再活性化され反復されうる過去のアーカイヴを可能とするのだ。そして、この正定立的文字の蓄積や構造化、さらに印刷術の発明によって、グーテンベルクの銀河系の構築が可能となったのである(グーテンベルクの銀河系は、正定立的文字によって組み立てられた文化に属している)。

 19世紀以降、産業革命とともに、新たな正定立的文字の総合である、記憶保存のアナログ・テクノロジーが登場する。それは、「graph」という文字が示すように、機械的‐自動的にリアルタイムで視聴覚を総合する、写真(光の文字)、映画(運動の文字)、蓄音機(音の文字)、電信(遠隔の文字)などのテクノロジーである。これらのテクノロジーは、アルファベットと同じく、過去の要素を物質的な媒体に定着することによって、正確に保存し、伝達することを可能とする。その事実は、複製技術としての印刷術によって構築された書物の文化とは異なった大規模な過去の層が組み立てられることを意味する。そして、20世紀後半には、ハイパー化された文化産業を背景に、ICT、デジタル・テクノロジーによる技術的文字とアーカイヴの根本的な革命が引き起される。

 スティグレールによれば、このアナログ‐デジタル的正定立は、時間の脱自態、つまり過去‐現在‐未来の関係を本源的に変容させるものである。なぜなら、現存在の時間性を担保する後成系統発生的媒体が、記憶の産業化のプロセスによって管理されることになるからだ。映画やレコードをはじめとした19世紀以降のテクノロジーは、(クレショフ効果が示すように)感性や情動を統制し、視聴覚的な時間的対象を文化産業化する。それは、ベンヤミンアドルノが示したように、意識‐時間の美学‐感性学的操作と産業的搾取に基づく政治経済の問題を生み出す。視聴覚的時間的対象を組み立てるプログラム産業やマーケティングによって、人間の意識が、消費者としての身体を備えた自我のマスとして市場を構成するに至るのだ。ここで、フッサールによって示された、意識の現在に組み込まれた記憶(第一次過去把持)と、意識の過去として回想‐想起される記憶(第二次過去把持)の関係は、テクノロジーが外在的に記録保存し市場化したアーカイヴ(第三次過去把持)によって重層的に決定されることになる。そして、アナログ‐デジタル的正定立は、新たな時代の可能性を切り開くと同時に、過去把持の装置を市場原理に従った計算の対象とすることで、極度に共時化され細分化された意識の荒廃、精神のエコロジーの危機、個体化プロセスの喪失、記憶や生の管理、いわゆる「象徴的貧困」の脅威をもたらす(映画の時間と難‐存在の問題)。

 ここで要請されるのは、技術装置を武器として批判的に使用した、単独的な意識の現勢化(アクティング・アウト)、意識の感性を洗練する政治的行動の実践、現存在の怠惰に打ち克つ哲学的思考である。そのためには、技術によって外在化された第三次過去把持を通して組み立てられる現存在の意識や無意識の物質的条件について根本的に考え直し、思考の権利を肯定し、それを批判的に行動へと移さなければならない。それは、哲学の問いを技術の問いによって脱構築すること、今世紀の科学技術の発達に結びついた新たな問題や作業仮説によって知や思考を批判することを意味している。スティグレールは、精神と行動において、認識論的、哲学的、科学的、倫理的、感性学的、経済的、政治的な革命を行わなければならないと指摘する。精神のエコロジーのために、テクノロジーの構成的役割や、産業的権力の方法論を、その本源的技術性から測定しなければならないのだ。このような批判は、本書のタイトル、そしてスティグレールの哲学的経験の単独性が文字通り示すように、偶然的に忘却された人間の起源、哲学的思考の技術的根源にある偶然を、偶然と共に、偶然から考えることにほかならない。本書は、その批判的実践のために、現代にとって非常に重要な問題を提起しているダイアローグである。

*本稿は、西兼志氏による未刊行邦訳を参照させていただいた。記して感謝する。

(中路武士)

・関連文献

Martin Heidegger, Vorträge und Aufsätze, Gesamtausgabe, Abteilung: Veröffentlichte Schriften 1910-1976, Band 7, herausgegeben von Friedrich-Wilhelm von Herrmann, Vittorio Klostermann, 2000.

Jacques Derrida, Mal d’archive, Une impression freudienne, Galilée, 1995.

石田英敬編『知のデジタル・シフト――誰が知を支配するのか?』、弘文堂、2006年。

・目次

哲学者と技術

記憶としての技術

産業的時間対象の時代の意識

意識、無意識、非知

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