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『テレビのエコーグラフィー――デリダ〈哲学〉を語る』ジャック・デリダ+ベルナール・スティグレール(NTT出版)

テレビのエコーグラフィー――デリダ〈哲学〉を語る

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●「技術論と憑在論 ――イメージ、アーカイヴ、テレテクノロジー」

 ジャック・デリダベルナール・スティグレールは、現代世界の諸問題(自由主義経済、文化資本主義、ナショナリズム、グローバリゼーションなど)を、映像メディアやテレテクノロジーの発達に代表される技術の問題から根本的に捉え直し、それを哲学の問題として引き受ける。それは、イメージやエクリチュール、情報やコミュニケーションについての切迫した政治的‐倫理的思索の試みである。私たちの生きる時間(時代)に関するこの思索の試みは、メディアやテレテクノロジーを分析的に把捉することによって批判的に実践され、デリダスティグレールの中心的な概念や重層的な問題系にしたがって単独的に展開される。本書は、デリダによる現勢性(アクチュアリティ)の人工性、あるいは現勢性の潜勢性(ヴァーチャリティ)に関する論考、スティグレールによる離散的なイメージの憑在論的な分析、両者のダイアローグから成るテレビのエコーグラフィーによって組み立てられた、技術哲学‐政治哲学の実践的記録である。

 デリダは、テレテクノロジーによって計算され、強制され、フォーマット化され、初期化される政治的現在、その構造が刻々と変形される公共空間を、「人工‐現勢性l’artefactualité」(人為時事性)と「現‐潜勢性l’actuvirtualité」(仮想時事性)という二つの特徴線から問題化する。現代世界において、現勢性は純粋な所与ではなく、メディアによってつねにすでに能動的に生産され、選別され、投資され、人為的に解釈されている。この人工‐現勢性の集中や占有を通して、国際化や世界化と同時に自民族中心主義がリアル・タイムで構築され、人工的な出来事が証言される。また、ここでは、潜勢性は現勢性に対立されるものではなく、現勢性やその代補、出来事に直に刻印されている。この現‐潜勢性を通して、現勢的なイメージやディスクールの時間‐空間が潜勢的なものとして技術的に組み立てられる。デリダは、自分の生きる時代、アクチュアリティを考える哲学者として、この現勢性の技術的変容をめぐる議論の脱構築、現代的な緊急性への政治的‐倫理的な責任‐応答可能性を、差延の運動、メシア的に到来する出来事の単独性から探る。それは他者の他者としての経験、すなわち絶対的な歓待、正義を意味する。それはまた、存在論の彼岸で、遺産相続と反復可能性、痕跡と記憶、不在と現前をめぐる亡霊の問い、亡霊的技術としての補綴をめぐる技術論理を意味する。デリダは、マルクス的亡霊の読解を基盤にして、国民国家歴史修正主義、西洋中心主義、反セム主義、人種差別主義、移民排斥主義、世界秩序、市場経済などの問題に言及することで、現代を具体的に批判していく。

 この現代世界の批判を踏まえて、デリダスティグレールのダイアローグが構築される。その主題はテレテクノロジーの時代における視線の権利をめぐって開始される。テレビがもたらした自己の家への現代的回帰、テレ権力による自己性と他者性の変容が、イメージという視聴覚的現象を担保する代補的技術を中心にして考察される。同時に、視聴覚的資料のアーカイヴの法や制度、技術が、記憶の政治とその批判的実践の問題系として考察される。デリダスティグレールは、この技術と記憶、イメージとアーカイヴの関係を、テレテクノロジックなエクリチュールのシステムから本源的に捉え返し、そこから視聴覚メディアをめぐる議論の脱構築を試みる。それはアルファベットからオーディオヴィジュアルに至るまでの離散的技術に関するある種の地政学の試みである。そして、その試みは、人工‐現勢性やホモヘゲモニーを構築する記憶産業や、人間の意識や情動を計算論的にコントロールするアーカイヴ市場への徹底的な批判として形を成し、さらに視聴覚テクノロジーや情報コミュニケーションの新たな地平に対峙する文化の政治を要請することになる。ここから、情報の支持体、政治的共同体と記憶をめぐる技術の問いが、映像や情報の「パルタージュ」の問題として提起される。それはまた、技術なしには成立しえない責任‐応答可能性や批判‐選択、また技術と相互に結びついた単独性や反復可能性の徴の経由を意味する遺産相続の問いでもあるだろう。こうして、デリダスティグレールは、現代のテレテクノロジーを批判しながら、そのなかに、固有言語(イディオム)の他なる経験の可能性、時間に時間を与える未来の可能性、出来事や場所性の可能性を見出していく。

 デリダスティグレールが俎上に載せるテレテクノロジーの種差性は、真理、証言と証拠に深く関わるものである。技術的アーカイヴは証言の現前によって担保されることで証拠として認定されるが、その証言自体が技術によってつねにすでに支えられている。このアポリアのなかで、証言と技術、記憶と歴史の関係性のラディカルな再考察の必要性が論じられる。なぜなら、写真のイメージやアルファベットのエクリチュールにおけるように、真正さの価値は、分離不可能な仕方で、技術によって可能となると同時に技術によって脅かされているからだ。したがって、ここから、技術的な痕跡それ自体が、意味‐感覚や機械的なもの、アーカイヴ化の様式とともに問題化されることになる。それは、テクノロジーを通して不在と現前のあいだに回帰する過去や記憶や死への単独的な関係性(アナクロニズム)、遅延された不可視の可視性や不可能な触覚性、すなわち幽霊や亡霊の問題系として立ち現れるだろう。この幽霊の論理は、本源的技術性における憑依の境位、脱構築の核心的な場にほかならない(遺産相続のなかには、この幽霊による「眉庇効果」の経験がつねにすでに刻印されている)。こうして、デリダスティグレールは、出来事とその幽霊的記録、歴史とエクリチュール、時間(生中継やリアルタイム)とイメージをめぐって、技術論的憑在論を構築するに至る。同時に、ここで、痕跡や差延の運動から、記憶のアーカイヴとそれによって組み立てられる無意識に注意すること、幽霊的痕跡の問いに精神分析をもって向き合うこと、さらに、知の支持体の技術的変容を用心深く捉え直すことの必要性が明確に提示される。このダイアローグの瞠目すべき点は、さまざまなアクチュアリティを批判的に分析するデリダの憑在論をスティグレールが技術論理的に捉え直すことによって、両者の議論が相互に絡み合い補完し合いながら――そして、ハイデガー存在論やバルトの写真論などの解釈をめぐって、さまざまな齟齬を生産的に孕みながら――新しい形で展開されていることである。

 スティグレールは、このダイアローグを敷衍するかたちで、写真や映画などのイメージを憑在論的に分析する。スティグレールはまず、心的映像(記憶)がなければ映像対象(記録)もないこと、しかしその映像対象がなければ心的映像もないことを示す(心的映像とは映像対象の亡霊的回帰なのだ)。それは、映像メディアの技術的変容がそのまま人間の超越論的想像力に影響を及ぼすということである。アナログ映像は、「指向対象」と「死」の物質的連続性、現象学的志向性、日の光によって、単独的な触覚性をともなった幽霊的効果を生み出す。デジタル映像は、夜の光(電子)によって、その幽霊的効果を分解し、不連続化し、離散化する。計算論的操作性を本質的属性とする離散化は、触覚や光の記憶の連鎖に本源的な影響を与え、亡霊と幻想の区別を曖昧にし、信と知を不安定化する。現代のアナログ‐デジタル映像は、この光の二重の帰属と、触覚に対する不確実さ、そして新たな幽霊の出現を意味するものである。そこでは、アナログ映像の現実効果や連続性が人工的な技術的総合としてつねにすでに内属的な離散性を有していたことが露呈される。また、腕時計のように、デジタル映像の複数的な不連続の多様性が表出され、さらにそれが、インデックスのように離散的な規則の同定可能性として示される。スティグレールによれば、それは運動のシステマティックな離散化、可視的なものの文法化、映像の解体的分析の可能性として位置づけられるものである。ゆえにアナログ‐デジタル映像の問いは、観客と技術による総合と合成の分析的把促に向けられる(映像分析の可能性は、技術的総合の進化にともなう観客の総合の進化を提起する)。そして、その問いはつねにすでに離散的なテクノロジーによって裏打ちされている。これは、文化産業的な図式に対してオルタナティヴな批判的分析の可能性を意味するだろう。こうして、私たちは映像を分析的に見るようになるのだ。アナログの連続性を離散化することで、デジタル技術は新たな知の可能性の条件を示しているといえよう(批判の道具を利用した、批判の空間の創出)。

 情報機器のユビキタス化をみればわかるように、現在、映像メディアやテレテクノロジーによって亡霊の力能が強められている。デリダスティグレールは、未来は亡霊たちにある、という。ここで要請されるのは、技術論と憑在論によって、テクノロジーによって組み立てられる幽霊的な現代世界や視聴覚的現象を批判していくことにほかならない。ヘーゲルが哲学者たちに新聞を毎日読むことを勧めたように、デリダスティグレールはテレメディアの構造を読み解いていかなければならないと警告する。本書は、その具体的実践の理論的方法論(=エコーグラフィー)の提起として、私たちの生きる時代に最も必要な批判書のひとつにちがいない。

(中路武士)

・関連文献

Jacques Derrida, Spectres de Marx: l’état de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale, Galilée, 1993.

Revue philosophique, vol.115-2 (« Jacques Derrida »), PUF, avril-juin 1990, pp.129-408.(カトリーヌ・マラブー編『デリダと肯定の思考』、高橋哲哉・増田一夫・高橋和巳監訳、未來社、2001年)

Roland Barthes, La chambre claire: Note sur la photographie, Gallimard-Seuil, 1980.(『明るい部屋――写真についての覚書』、花輪光訳、みすず書房、1985年)

・目次

 第一部 人為時事性(Jacques Derrida

 第二部 テレビのエコーグラフィー(Jacques Derrida et Bernard Stiegler)

   視線の権利

   アーティファクチュアリティ、ホモヘゲモニー

   記憶の証書――地政とテレテクノロジー

   遺産相続とリズム

   「文化例外」――国家の状態、出来事

   アーカイヴ市場――真理、証言、証拠

   フォノグラフィー:意味――遺産相続から地平へ

   幽霊的な記録(分光写真spectrographies)

   無意識の警戒

 第三部 離散的イマージュ(Bernard Stiegler)


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