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『無信仰と不信1 産業的民主主義の退廃』(未邦訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 2004, <I>Mécréance et discrédit 1.La décadence des démocraties industrielles</I>, Galilée</font>

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●「資本主義世界における文化の政治と「記憶媒体hypomnémata」の実践」

 資本の流れはあらゆる境界を踏み越えていき、その運動を通して、地球上に存在するさまざまな現実的統一性や想像的な統一性を動揺させつづけていく。そこで生み出されていく動揺に対しては、当然ながら反動的な動きが伴うことになる。国家や民族や宗教といった想像的な統一性がいたるところで過剰に回帰し、しばしば物理的な暴力をもたらしながら、世界の不協和音は日増しに高まっていく。

 2002年4月21日、大統領選において極右政党を率いるジャン=マリ・ルペンが決選投票に進むことが判明し、フランスに大激震が走った。また2004年6月13日には、フランスでの国民投票の結果はEU憲法に拒否を突きつけ、ヨーロッパの足元が大きく揺らいだ。資本のグローバルな移動に対する反動という性格を紛れもなく有しているこれらの事例のうちに、ベルナール・スティグレールは政治という営為を根拠づけているはずのある「信憑croyance」の崩壊を見て取る。「無信仰と不信」がいたるところに瀰漫し、そのことによって政治が機能不全に陥りつつあるというのだ。スティグレールはこの地点から出発して、資本主義時代における可能な政治のあり方を探っていく。

 そこでスティグレールが繰り返し強調するのが、文化に関する政治というものの必要性である。こんにち政治を機能不全に陥らせているのはある「信憑」の不在であり、とすればなによりも要請されているのはその「信憑」を耕すものであるところの文化に関する政治である。しかしながら現代においては文化は、ハリウッドを頂点とする「プログラム産業」によって徹底的に商品化されており、その傾向は情報・コミュニケーション技術の発展によってさらに推し進められつつある。そこでは文化的対象はグローバルなマーケットにおいて均質化され、特異な経験を育む契機となることは困難である。

 それではそのような状況においていかなる可能性が残されているのか?

 スティグレールは系譜学的な問いを立てることで、現代の「無信仰と不信」の起源を探っていく。そこではマックス・ウェーバーの議論を手引きとしながら、資本主義の成立そのもののうちに、社会の基盤にあった宗教的な「信憑」が、換金可能な「信用」へと格下げされていくプロセスが見出される。そのプロセスの結果として、計算不可能なものとの関係である「信憑」はもはや不可能となり、すべてが計算可能性のうちに切り縮められる。資本主義とは計算可能なものしか存在しない世界のことであるのだ。

 スティグレールはここで展開されていくプロセスを「オチウム(Otium)」の「ネゴチウム(Negotium)」への還元のプロセスとして捉え直す。オチウムとは計算不可能なものとの関係において繰り広げられる象徴的営為であり、かつては聖職者がその役割を一手に引き受けていた。しかしスティグレールによれば資本主義化のプロセスは、あらゆる活動を生活の糧を稼ぐための営為であるネゴチウムへと還元してしまった。

 ミシェル・フーコーは「自己の書法ecriture de soi」と題された文章において、「記憶媒体hypomnémata」を場とした古代ローマにおける自己陶冶の技法について論じている。スティグレールはこの議論を自身のオチウム論の中に位置づける。あらゆるオチウムは特定の記憶媒体を場として展開されるものであり、その活動を通してそれぞれに特異な自己が構成されていく。また同時に記憶技術を場とした実践は、事実と権利の差異を生み出していくものであるともされる。いうまでもなく権利は、事実とは異なり、つねに「いまだ存在しないもの」、来るべきものとしての「信憑」の対象である。

 プログラム産業はオチウムの場としての記憶媒体を、際限のない消費の対象として編成し直す。この事態はいうまでもなく、資本主義が「信憑」を「信用」へと切り縮めていったそのプロセスをさらに推し進めるものである。そこでは特異性の経験は次第に困難になり、それゆえ資本の流れに無力にさらされることになる。想像的統一性が性急に召還されるのはまさにここにおいてであり、その事態はまさしく記憶媒体の実践としての文化の欠如を証言していると言える。

 政治的闘争の真の舞台は文化であり、またそれぞれの文化的対象がそこへと書き込まれる記憶技術である。スティグレールによるこの主張は何も奇異なものではなく、アメリカ的な民主主義と消費主義とが映画というメディアを通して世界中へと輸出されていったという現実の事態を想起すればその正当さは容易に理解される。

 ここで問題となっているのは個々の境界を相対化しつづけていく情報・コミュニケーション技術をラッダイト的に放擲することではなく、それらを新たな文化政治のための武器として積極的に取り込み活用していくことである。そのことによって、文化的対象を徹底して消費の対象へと引き下げてしまうプログラム産業に抵抗する、記憶媒体の実践を通してそれぞれの特異性の経験を耕していくという「特異性の政治的エコノミーéconomie politique des singularités」が可能となるのだ。

 

 『技術と時間』シリーズで技術の根源性について繰り返し論じてきたスティグレールは、政治の根底に「信憑」を生み出す文化的営為を見出しながらも、それらの営為を実現する技術の次元を忘れることはない。本書『無信仰と不信1』では、シンボリックなものが書き込まれやり取りされる記憶媒体という場のもつ意味が、その根源的な性格においてあぶりだされていく。その上でスティグレールは本書の結末部で、その記憶媒体において書き込みを行う「手」という形象に注意を向けると同時に、そのような「手」を有した知識人という存在の役割を強調する。「手」を有した知識人とは、単に観照するのではなく「手」をもって実践的に介入する存在であり、また特定の記憶媒体の配置において「手」をもって書き込む存在でもある。実践の場とはつねに記憶の書き込みの場である。「手」をもった知識人とは、自身が、そして社会がそこへと置かれている書き込みの場の性格に批判的なまなざしを向けつつも、同時にその場において積極的に書き込みを行なっていく存在であるのだ。

 スティグレールの著作をつねに貫いており、本書では知識人の役割とともに考察された「手」の形象は、『象徴の貧困』の第二巻においては芸術家の、そして芸術を愛するアマチュアの「手」として捉え直されていく。重要な著作を量産しつづけていく「スティグレールの手」からは、なかなか目が離せないのである。

(谷島貫太)

・関連文献

マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫大塚久雄訳、1989年

蓮實重彦渡辺守章 監修/小林康夫石田英敬松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』,筑摩書房、2001年

ハンナ・アレント『人間の条件』、ちくま学芸文庫、志水速雄訳、1994年

・目次

一章 退廃とそれが我々にもたらす義務

二章 信憑と資本主義時代における政治

三章 人々のオチウム(Otium)

四章 信じようと望むこと――知識人の手において


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