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『グローバル・カルチャー―ナショナリズム・グローバライゼーション』(未邦訳)マイク・フェエザーストン編<br><font size="2">Mike Featherstone, ed. 1990, <I>Global Culture: Nationalism, Globalization and Modernity</I>, Sage</font>

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「グローバル・カルチャーの位置」

 1955年、アメリカのイリノイ州に第一号の店舗を開いたマクドナルドが始めて日本にやってきたのは1971年のことであった。その後冷戦が幕を閉じ、新しい世界秩序が成り立っていく中で、マクドナルドはそれと同じ速度で世界各国(旧ソ連(1990年)、中国(1991年)など)に広がってきた。そして今や我々は、ビックマックBigMac一個の価格で各国の経済指標を測る時代を生きている。60年代、かすかにその姿を現した「グローバル化」という概念は、90年代以降メディアや企業、政府、金融、そして知識集団の中でひろく扱われるようになり、今や誰もが身近に感じる一般的な用語になっているのである。インターネットで、大衆文化で、海外旅行で、我々はそれが元々存在していた当然の条件であるかのようにグローバル化を語っている。

 しかしグローバル化は、その言葉自体は普遍的で、とても親しいものでありながらも、一方今の世界に関して実質的な洞察力を持っているとは決していえない、曖昧で複雑な概念である。それはグローバル化が多重の次元で様々な形として行われる現象だからである。したがって、そのグローバル化という急速な変化の複合と力動を説明するためには、政治と経済だけではなく文化的な観点が要求されるのである。フェザーストンFeathersoneを始め、ウォーラーステインWallerstein、アパデュライAppaduraiなど多く知られている碩学の論文が収録されている本論文集は、そのグローバル化と文化を論じることにおいて決して欠かすことのできない特別な存在感をもつ著作である。今までいわゆる「グローバルな何か」に関する数多くの著作を読んできた(あるいはその参考文献を注意深く観察してきた)読者であれば、この多少大げさな表現にとくに違和を感じることはないだろう。この論文集の編集者であるフェザーストンFeathersoneは、「グローバル・カルチャーは存在するのであろうか」というテーゼを前面に出し、グローバル化に関して対立する二つの伝統的な流れの中で、グローバル・カルチャーを巡る論争を纏めている。

 グローバル化に対する二つの代表的な観点といえば、グローバル化を本質的に単一の因果論理によって作動するものとして捉えているウォーラーステインWallerstein、ギルピンGilpinらの側と、多重の因果論理で説明し、それらを歴史的過程として強調するギデンズGiddens、ロバートソンRobertsonらの側である。グローバル・カルチャーの存在というテーゼを巡っても、普遍的なグローバル・カルチャーの形成の可能性を強調する立場と、グローバル・カルチャーを主張すること自体がイデオロギーであり、そのものは地政文化の連続だと主張する立場が対立する。

 まずフェザーストンは、世界システム理論における文化の位置を巡る論争に注目する。ウォーラーステインにとって文化概念とは、資本の蓄積という論理に基づく世界システムによって説明される問題であり、彼にとっては、文化を定義すること自体が本質的に政治的な境界を定義する問題なのである。それに対しボインBoyne、ウォースリーWorsleyらは、その一面的な文化概念を批判し、ナショナリズム、宗教、そして人種主義などが重視される「近代」を、文化の次元なしに理解することはできないと指摘する。アンソニースミスAnthony Smithもグローバル・カルチャーに対して否定的な意見を示している。彼にとってグローバル・カルチャーとは、グローバルなコミュニケーションに対立するものであり、グローバル・カルチャーには共通の歴史的経験という部分が欠けていて、そこでグローバルな記憶が存在することはできないのである。むしろグローバル・カルチャーより民族文化による「グローバルな文化戦争」の方がふさわしいのだという。

 フェザーストンはグローバルなレベルにおける趨勢がある種の文化的な統合と均質性を進めるという主張を批判しながらも、グローバル・カルチャーという共通の素地について語る余地に可能性を見出す観点を堅持する。その可能性の一つとして取り上げているのが、ロバートソンRobertsonの「グローバルな圧縮のプロセス」である。彼がいう単一の場所が意味するのは単純な均一性や共通文化ではなく、社会関係を決定するコンテクストと同時に社会構成員の存在、アイデンティティーと行為に準拠したものであり、複雑な社会的・現象学的条件である。ハーネルズHannerzも一つの世界文化は存在すると断言する。しかしそれは、意味と表現の体制の全面的な同質化ではなく、世界が一つの社会的ネットワークになり、地域と地域の間には人間や財、そして意味のフローが存在するということを意味する。アパデュライAppaduraiによる五つのグローバルな文化的フロー、つまりエスノスケープ、メディアスケープ、イデオスケープ、テクノスケープ、ファイナンススケープは、そのような様々なフローに繊細な想像力を提供している。

 本書の冒頭でフェザーストンは、「グローバル・カルチャーは存在するのであろうか」というテーゼを論じるために、民族国家の文化を拡張させることを警戒しながら、ナショナルな、または社会的なレベルを超えて思考することを提案している。「トランスナショナル」という概念が普通に使われるようになった現時点から17年前、つまり我々がインターネットや携帯の存在すらよく知らなかった時代に書かれたということを考えると、それは非常に洞察力のある提案であることを言わざるを得ないのであろう。しかしそれから17年後、インターネットを初めとする尖端のテクノロジーによって全世界が圧縮されつつある現時点で、そのテーゼに答えを出すことはいかなる意味を持つのかを、我々は省察的に考えなければならない。相変わらず、むしろより激しく行われているグローバルな文化威信競争を巡るナショナル・カルチャーの争いの中で、我々は(カンクリーニCancliniがいう)飛行機から、あるいは高速道路上の車からグローバル化を論じているのではないだろうか。グローバル・カルチャーが存在するのであれば、それは我々にとって何を意味するのであろうか。本書がもつ問題意識は今でも有効である。

(金ソンミン)

・参考文献

Featherstone, Mike. Consumer Culture & Postmodernism. Sage、1991. 川崎賢一、尾川葉子、池田 緑. 消費文化とポストモダニズム(上、下). 恒星社厚生閣、1999、2003.

McGrew, Anthony. “A Global Society?”. Modernity and its Future. Polity Press, 1992.

Tomlinson, John. Globalization and Culture. Polity Press, 1999. 片岡信. グローバリゼーション : 文化帝国主義を超えて、青土社、2000.

吉見俊哉. カルチュラル・スタディーズ. 岩波書店、2000.


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