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浅田彰×松浦寿輝「人文知の現在」~『表象』第01号、表象文化論学会、月曜社、2007年4月、pp.8-33

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「<人文知の現在>に抗って ――知のアメリカ化、幼児化、情報化」

 人文知をめぐる重層的な問題系のあいだを横断し、人文知の現在を批判すること。閉域化し衰弱しつつある知的空間のなかで、人文知の在り方をその根底から問うこと。浅田彰松浦寿輝による対談「人文知の現在」がめざすのは、その批判的な問いを通じて、人文知の可能性を探っていくことである。

 対談ではまず、1989年の東欧民主化と1991年のソ連崩壊以降における、アメリカの主導するテクノキャピタリズムの世界化と、プラグマティックな工学知による利潤追求の全面化という問題が指摘される。また、それへの反動としてのヨーロッパ的な人文的教養への不可能な回帰が、知的空間の閉域化という不毛な構図を形づくっていることが示される。ところで、歴史的かつ原理的にみれば、ドイツ思想の輸入と翻訳によって生み出されたフランス現代思想に明らかなように、文化圏のあいだでの移動と翻訳は、二〇世紀の人文知を活性化してきたといえよう。その意味では、デリダフーコーのように、アメリカ的なものとの接触を介した移動と翻訳によって、人文知が活性化したということもありえるだろう。あるいは、アドルノパノフスキーのように、アメリカ的な合理化に耐えうるような人文知の力こそ重要なのではないか。ここでは、知のアメリカ化をヨーロッパ的人文主義によって単純に否定するのではなく、このような二〇世紀的な越境と翻訳を二一世紀にいかに取り戻せるか、それが人文知の可能性のモチーフのひとつになるとされる。そしてさらに、現在の日本の知的空間においても、古いパラダイムへの回帰や、新しいパラダイム内での縮小再生産に陥らず、既存のパラダイムを蹴散らし、新たな出来事を呼び込むような模索を展開することの重要性が示される。

 続いて、人文知が創造の現場と繋がることの必要性が確認される。人文知は、批評の実践だけでなく、文化的創造への接触や参与によって、真の意味で機能するといえるからだ。しかし、浅田と松浦にとって、この文化的創造の現在は、文学や詩において顕著にみられるように、もはや歴史意識を欠いた白茶けた荒野のようにしか映らない。芸術家の感性や身体、才能が、文化的教養と出会って化学変化を起こすというケースが例外的なものとなりつつあるのだ。そしてさらに現在、それに関連して、資本主義の結果、世界が幼児化していること、また、その幼児的退行を売り物にする芸術ばかりが市場のただなかに投げ出されていることが指摘される。幼児化する世界(幼児的資本主義)において、芸術的な創造行為や、学問的な営為は、それらにとって必要な「自明性の揺らぎ」を失いつつあるのではないか。知は自らをその世界の外へ投げ出し、突破口を開かなければならない。人文知には、市場の論理を抜け出したものに反響板を当て補助線を引き、自明とみえるものを批判しながら、創造的なものの力を訴える機能があるのだ。ひとつの言語やネーション、あるいはディシプリンから抜け出し、いわば思考の亡命者となること。現在の人文知を内破するためには、このような実践が求められているとされる。

 対談は、さらに、幼児化やポストモダン化とも関わってくる電子メディアの問題系をめぐって展開される。ここでは、活字メディアから電子メディアへという情報知のパラダイム・シフト(膨大な記憶の外在化と機械的な検索の可能性)が、現状では、人文科学の優れた達成に寄与しているとはいえないと論じられる。なぜなら、現在生じているのは、前近代的‐幼児的な主体が、閉じられた場のなかで情報空間を共有するという退行(無媒介的な共現前のイリュージョン)にほかならず、そこでは歴史的に蓄積され咀嚼された学知が単なる情報へと置換され、存在と一体化した知に対する敬意が失われつつあるといえるからだ。情報の行き交う空間ではなく、書物によって構成された知の迷路としての図書館によって、人文知の基盤が形づくられてきたという歴史的事実を忘れてはならない。情報知のコンビニ化という時代において、情報になる前の知、身体化された知、モノとしての知と直接かつ偶然に遭遇できる場が必要とされているのだ。新たな知的創造は、蛸壺的に限定された情報を共有する匿名の共同体から、特異性が突出しつつ相互に遭遇する場への相転移がなければ行われえないだろう。そのために、人文知は、アーカイヴを維持するコンセルヴァトゥールや、その遭遇を組織化するメディエーターの役割を演じるべきであると述べられる。

 ここで浅田と松浦が要請するのは、偶然的な出来事から発し、ジェネレーションやディシプリン、さらには言語や制度をも越えた、連帯や交通、友情である。あるいは、アカデミックな活動とアクチュアルな活動を相互に結び付けていくことである。移動と越境を通じて他者と触れ合い、葛藤や緊張を受け止めること――こうした体験が、人文知を衝き動かし、その新たな基盤となっていく。そしてそのためには、自己への懐疑と絶望から出発して、知そのものへと立ち向かっていくような身振りが必要とされるのではないか。本対談は、人文知の現在を批判しながら、このような問いかけの提起を通して、人文知の未来の可能性を批判的に描き出しているといえよう。なお、『表象』の創刊号の特集は「人文知の現在と未来」と題されており、浅田彰松浦寿輝だけでなく、岡崎乾二郎中沢新一田中純鵜飼哲岡田温司神崎繁、あるいはサミュエル・ウェーバーといった気鋭の人文学者による人文知へのさまざまな問いが提起されていることを付記しておく。

(中路武士)

・関連文献

Iain Boal, T. J. Clark, Joseph Matthews, Michael Watts, Affected Powers: Capital and Spectacle in a New Age of War, Verso, 2005.

浅田彰松浦寿夫岡崎乾二郎編『批評空間臨時増刊号:モダニズムのハードコア――現代美術批評の地平』、太田出版、1995年。

Michel Foucault, Folie et Déraison. Histoire de la folie à l’âge classique, Plon, 1961.(『狂気の歴史――古典主義時代における』、田村俶訳、新潮社、1975年)


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