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『森有正先生のこと』栃折久美子(筑摩書房)

森有正先生のこと

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「悪役は誰だ?」

小説家の勝負所は、いかに悪役を描くかにある。考えてみて欲しい。小説の登場人物に「ほんと、いい人だなあ」などと感動することなどあるだろうか。「こいつ、ほんと嫌な奴だなあ」と感心することの方がはるかに多いのではなかろうか。・・・と言った途端、「え、そうですか?たとえば?」と突っこまれたら、一瞬躊躇してから筆者は――小説などよりも――真っ先にこの『森有正先生のこと』をあげるだろう。


 著者の栃折久美子さんは有名な装丁家。元々は筑摩書房で編集者をしていた人である。ちょうど編集者を辞めるという時期に、栃折さんは哲学者の森有正と運命的な出逢いをする。それから森有正が亡くなるまでの約十年、ふたりは何とも奇妙なつき合い方をした。

 森有正は実にわがままな人だ。気分屋で、神経質で、予定の急な変更も得意。終始マイペースで、そのたびに周りの人間に迷惑をかける。でも、いつの間にその「迷惑」を浴びる中心に、栃折さんがいた。こういうのを恋愛などという陳腐な言葉で表していいのかわからないのだが、自分の中の熱いものを持てあますようになる栃折さんは、恋愛特有の毒素のようなものに満ちている。

 象徴的な場面がある。

 知り合って一年目の秋、栃折さんは二ヶ月以上に渡りヨーロッパ旅行をした。パリでは森有正とも会う。とりたてた出来事があるわけではない。食事をし、会話をする。森は自分の日記に、「日本から栃折さんという修道女が来た」などという書き方をする。そして帰国。栃折さんは森に、まず礼状を書く。が、それから、もう一通手紙を書いた。これが何の手紙だかよくわからないのである。でもこの箇所には、つまり栃折さんが自分の手紙の内容を振り返って語る一節には、栃折さんという人の性格がたいへんよく表れ出ている。

本を読んで「感動」するということは、その著者を直接に知らなくても、それは頭だけのことではなくて、身体全体のものだから、以前の手紙と本質的には変わらないと言うこともできる。けれども、この時書いた手紙には、それまで決して使ったことのない「ハンドバックと寝間着だけ持ってパリに行きの飛行機に乗ってしまいたい」などという、いささか物騒なことを書いたのは事実である。読者の立場をはみ出して、情理の失調状態を、はじめて著者に打ち明けた、と言わなくてはならないだろう。

 「事実である」「情理の失調状態」「と言わなくてはならないだろう」

 は?という感じがする。仮にも、いよいよこのふたりの関係がのっぴきならないものになろうか、という際どい場面である。熱いものに突き動かされ、栃折さんはジャンプしたのだ。どうやら手紙で何かを言ったらしいのだ。

 でも、栃折さんは頑な語り口を変えずに続ける。

 その一方で、木下さんの『ドラマとの対話』に書かれていたcreateするということを、前に木下さんに手紙を書いた時の五倍も強く感じている、という一節もあって、二重の構造になっている。書いても書かなくても同じ手紙なのだから、返事はいらないし、今年の夏は、去年、一昨年のように、何度も会って親切にしてくださらなくていい、とも書いた。

 正直言うと、はじめに読んだとき筆者は、この箇所、何のことかよくわからなくて、あらためて何行か戻って読み直したものである。「二重の構造になっている」と栃折さんが言うものは、栃折さんと森有正との、恋愛に限りなく近い関係の、そのもっとも痛切な部分について何かを語っているはずなのだ。

 翌年、約十ヶ月ぶりに栃折さんは森有正と再会する。ここがまたすごい。再会した栃折さんが手にしたのは、踵のすり減った森有正の大きな靴であった。駄目になってしまったから、新しいものを買ってきて欲しいとのこと。栃折さんはその片方の靴を家に持ち帰り、翌日、馴染みの靴屋から四足ほど見本を借りきて、ホテルの森有正を訪れる。「どうなさったんですか。そんなにたくさん」というのが森有正の第一声だった。そして、よりによってこのタイミングで、十ヶ月近く前の手紙のことを森有正は言うのである。手紙は燃やした。返事は書いたが、会って話した方がいいと思って結局投函しなかった。勝手にひとりでやっていきたい・・・そんなことだった。

 もちろん、これは終わりではなく、始まりであった。四足の靴を抱えて、小間使いのように扱われている栃折さんからは、すさまじい念力が出ているのだ。

 『森有正先生のこと』。何という慇懃なタイトルだろう。もちろん、「嫌な奴」なのはそうやって祭り上げられている森有正ではない。栃折さん自身だ。こういう人、身の回りにいません?じっと見ている人。相手ばかりにしゃべらせる人(栃折さんはふたりの会話を描くときも、森有正のセリフだけ抜粋するのだ)。下僕のように振る舞うけど、プライドは人並み外れて高い人。自分の感情にはロックをして、もの凄い力で抑圧している人。ぜったいに人前に裸などさらさない人。どもる人。舌足らずな人。何言ってるのかわからない人。でも、実は、よ~くわかっている人。しかも、恐ろしいような念力を発している。森有正も、どうやら、その餌食となったのだ。こういう魅力はタチが悪い。こんなに「嫌な奴」なのに、妙に可愛らしく、可憐に見えたりするのだから。


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