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『私』谷川俊太郎(思潮社)

私

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「無言で語る」

 やっぱりこの人は違うな、と思う。


「うまい」というのは詩人の場合はあまり褒め言葉にはならないのかもしれないが、谷川俊太郎については、つい「うまい」と言いたくなる。それが嫌な意味にもならない。

表題作である巻頭の「私」という連作は、「自己紹介」という作品から始まる。

私は背の低い禿頭の老人です

もう半世紀以上のあいだ

名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問詞など

言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから

どちらかと言うと無言を好みます

五行連句の詩なのだが、こんな調子でぶつぶつ言っているようで、連句の最後の一行にかけては必ずちょっとひねる、というパタンになっている。ただ、ひねりつつも言いたいこともしっかり言う。三連目の終わりの「私にとっては睡眠は快楽の一種です/夢は見ても目覚めたときには忘れています」もなかなかいいが、とくに最後の連が、うまい。

ここに述べていることはすべて事実ですが

こうして言葉にしてしまうとどこか嘘くさい

別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません

夏はほとんどTシャツで過ごします

私の書く言葉には値段がつくことがあります

これははっとする。ひねりつつも言いたいことを言う、というパタンが、そうか、こういうところにたどり着くのかと思わせる。斜に構えているようで、意地をはっているようで、プライドなのか、意志のようなものなのか、「え、そんなこと言っちゃうの!?」という無防備なものがちらっと露出する。しかし、もちろんそこも計算済みなのだろう。

 谷川は用心深い詩人である。基本的にパタンで書くから隙がない。非常に合理的で美しいフォームを持った打者と同じで、どんな球が来ても対応できる。たとえ凡打に終わっても、打球は鋭い。少なくとも三打数に一回くらい、つまり最低でも一試合に一回はヒットを打つから、たいへん頼りになる感じがする。客を呼べる。谷川は日本で唯一、詩を書くことで食っていける人だ、ということがずっと言われてきた。

 それにしても、谷川のパタンの操り方はにくい。パタンの根底にあるのは基本的には「連続の威力」で、タンタンタン、タンタカタンとこちらを誘い込み、導いていくのであるが、そこにどうヴァリエーションをつけるかで、華やぎがぜんぜん違うのである。

アフタヌーンティ」という店で

熱いチャイを飲みながら思った

意味がヒトの心を黴のようにおおっている

むかし言葉はもっと無口だったのではないか

ただそこにあるだけだったのではないか

意味に打ちひしがれず 欠けた茶碗のように

流れているBGMとは違う音楽が

かすかに鳴っている

私の深みで

「…と思った」という書き方は一種のお約束だから、こちらも「じゃ、お手並み拝見」という気分になる。そこから、なお、際立った何かを言ってみせる技にはスポットライト慣れした熟練を感じる。

 この「ただそこにあるだけだったのではないか」の、颯爽とした淋しさのようなものは、今回の詩集の通奏低音となっているようだ。詩集中、かなり存在感のあった「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」という作品でも、とくにインパクトが強いのは次の部分である。

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で

抜け穴を掘らせようとする

だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば

子どものころ住んでた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ

柿の木なんぞといっしょに

ごめんね

谷川のパタンの今ひとつの旨味は、こうした小さな「呼びかけ」、いや、「話しかけ」の身振りにある。そう、谷川の詩は、実にフレンドリーなのだ。自分が変に感動してないから、のめり込みすぎてないから、会話が成立する。だからこちらとしても、ちょっと突っつかれたり、ひねられたりするのがたいへんこたえる。

 でも、全然感動してないのだったら、そもそも詩なんか書かないんじゃないかなという気もする。いくらその言葉に「値段がつくこと」があっても。どうやら感動はしても、そのことに「無口」でいたりする詩の書き方があるのだ。本書は、そのことをあらためて語って見せたという詩集なのではなかろうか。 

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