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『苦海浄土 わが水俣病』石牟礼道子(講談社)

苦海浄土

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「誰が書いてもいい話」

 よく知られた事件についての、たいへん有名な作品である。刊行は1969年だから、ほぼ40年前。

 意外とよく知られていないのは、水俣病にかかわる裁判が、2008年の今なお係争中だということである。そこで、たとえば、その話を聞いた筆者のような者が、「へえ、そうなんだ」と思ったとする。たまたま九州に行く用事がある。せっかく初の九州行きだから、福岡だけでは何だし、せめて熊本まで行ってみよう、などと思ったりする。熊本の城を見物し、時間があって天気が良かったら阿蘇山の方まで行ってみようかと地図を広げると、熊本の向こうはもう鹿児島である。九州の中でも異世界であった薩摩の歴史に思いがおよぶ。気分はたかまってくる。

 そこで、ふと海沿いの「水俣」という地名に気づく。そうか、こんなところにあるのか、と思う。行ってみようか、と考える。でも、熊本県の最南端、鹿児島との境に接する水俣市は、かなり遠い。わざわざ行くべきか、どうか、と悩んだりする。行ってどうするのだろう。

 水俣市は今では環境都市として有名なのだという。その一方でまだ裁判は行われている。チッソは企業としていよいよ成長している。水俣の町では、今でもチッソの悪口を言うことがタブーで、たとえば裁判の応援をしに町を訪れた人は、そのことをタクシーの運転士さんにでも言わない方がいいらしい。反対に、水俣出身の人が自分が水俣出身であることを隠す、ということがあったりもする。

 『苦海浄土』は水俣病を書いたものである。水俣の近くに生まれた著者が、距離などおかず、あからさまな愛情と慈しみをもって、この病に苦しめられた人々の姿を書く。また、病を引き起こした工場の振る舞いの記録をつづる。一度読んだらそう簡単には忘れられない描写が、これでもかと続く。

 たとえば「舟を焼く仕事」。舟を焼くというのは、漁師が舟の底にくっつく牡蠣殻や、藤壺の虫をとりのけるためにすることである。陸にひきあげた船体を斜めに倒し、舟底に薪をくべ、舟火事にならぬようにこれらを焼き落とす。なかなか面倒な作業である。

その手間をはぶくために、わざわざ百間の港まで、持ち舟を連れて来て、置き放すというのだった。きれいさっぱり、虫や、牡蠣殻が落ちるというのだ。百間の港の「会社」の排水口の水門近くにつなぎ放してさえおけば、いつも舟の底は、軽々となっている、というのであった。

 そのうちに漁獲高が目に見えて減ってくる。水に魚が浮くようになる。それから猫がやられた。「猫が舞って死ぬ」との噂が流れる。「舞う」のは、神経の異常のためである。次は人間だった。海沿いの部落で病人が出始め、工場が排水口の向きをかえると、こんどはそちら側で病人が多発する。

 はじめて病人が出た頃、この原因不明の奇病は伝染病と誤解されがちであった。当然、余計な恐怖心を持つ者もいた。

この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護部さんたちが大勢で来て、先生うつりませんかという。よく消毒して、隔離病院にうつすようにするというと、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出[水俣病の多発地帯のひとつ]の看護婦さんは、あとになって胎児性[水俣病]の子どもを産むことになった。まさかそこまではそのとき思いおよばなかった。

 水俣病は伝染病ではない。しかし、この病気の出発点は、まさに「手が先生しびれます」という感覚なのだ。現在絶版だが、吉田司『下下戦記』(白水社)には次のような一節がある。

ところが今度ぁ、あたしが身体中痺れっきたったい。手とか指とか、足ン痺れひどうなって、なんじゃ手袋はめて物ば触っとる気色で、富子と清治に飯食する匙ばポロポロ落とすわけたい。茶碗まで落として割ってしまうわけたい。『あれーッ、こりゃいかん。まさか富子ン病気が伝染ったわけじゃなかろうねえ』もう居ても立っても居られんわけ。夜中他ン患者が寝てしもうてから、こっそり病院の炊事場さ行ったったい。なんとかこン痺れ取ってやれッち思て、指先ばゴシゴシ軽石でこすってみた。ゴシゴシゴシゴシ、取れんとたい、痺れが。今度ぁコンクリートの壁にこすりつけて、ゴシゴシゴシゴシ。

水俣病は何よりも「わからない病気」だった。何であれ、わからないということ自体、人間にとっては不気味なのである。コンクリートに指をこすりつけてでも取り去りたい、得体の知れない痺れは、原初的な恐怖を呼び起こした。

 著者石牟礼はとにかく水俣病のすべてを見ようとしてきた。東京から視察に訪れたチッソ社長の車をタクシーで追うこともあれば、大学病院に頼んで患者の解剖に立ち会うこともあった。この本の力づくの文体には、力づくの視線が感じられる。

彼女のすんなりとしている両肢は少しひらきぎみに、その番い目ははらりと白いガーゼでおおわれているのである。にぎるともなく指をかろく握って、彼女は底しれぬ放意を、その執刀医たちにゆだねていた。内臓をとりだしてゆく腹腔の洞にいつの間にか沁み出すようにひっそりと血がたまり、白い上衣を着た執刀医のひとりはときどきそれを、とっ手のついた小さな白いコップでしずかにすくい出すのだった。

凄惨な場面だが、こうして著者の佇む気配がそこにあると、読んでいて、なぜか少し安心する。

 だが著者の石牟礼が、自分のことをはっきりと語る場面は多くはない。釜鶴松の死に際、とても往生などできそうにないその眼差しを見て著者は思う。

 そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。

 この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。

 この本を読むことが、著者の言う「自分が人間であることの嫌悪感」に直結するのかどうか、筆者にはわからない。少なくとも、この本に書かれているのは病気のことだけでない、あるいは企業の振る舞いや、それに向けられた感情や、水俣のさまざまなしがらみだけではない、ということは言えると思う。とにかく水俣という場所がそこにある、という気にさせる。次に地図を見るときには、そこに目がとまる。「水俣とはいかなる所か」という言葉に続く説明の中に、「天気予報をきくには、鹿児島地方、熊本地方、人吉地方をきいて折衷せねばならない」という箇所があるのがとても印象に残った。

 誰が書いてもよかった話を、誰が書いてもいい文体で書いたところがすごい、という本ではないだろうか。

 

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