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『牛を屠る』佐川光晴(解放出版社)

牛を屠る

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「小説家が小説を書かない」

 なかなか果敢な実験、というのが最初の印象だった。というのも、そこで行われているのが「いかに小説家が、小説を書かないか」という試みであるように読めたからだ。

 もともと佐川は、牛の解体作業を描いたデビュー作「生活の設計」のイメージがたいへん強い。佐川が屠殺場を舞台とした小説を書いたのは実はこの一度だけなのだが、筆者なども、何となくこの作家が頻繁に屠殺の風景を描いているかのように錯覚していた。

 佐川自身にとってもこの「生活の設計」が重要な作品だったことはまちがいない。しかし、それだけに佐川は、自分が十年間働いた屠殺場の業務について書くことに、これまで禁欲的であった。西村賢太のような作家が、ほぼ同じ題材を扱うことで、その世界を変貌させ洗練させるのに対し、佐川は文体といい、語りの方法といい、題材といい、毎回たいへん慎重に書き分けている。屠殺小説も一回限りだった。

 本書は著者がいわばその禁をやぶって、ふたたび大宮と畜場での解体作業について書いたものである。「これから世の中に出てゆく若い人たちに向けて」その労働の体験を書いたものであり、フィクションではない。作業の様子は細かく描写され、作業場での人間関係にもかなりの説明が費やされる。言うまでもなく屠殺という職業は、長らく部落差別と結びつけられてきた。単なる労働体験の記録ではすまないのははじめからわかっている。それだけに、「小説」となってしまいやすい素材でもある。

 しかし、佐川は『牛を屠る』を小説にしたくはないのだ。そのプロセスを見ていると、なぜ、彼が小説の書き分けにこだわるのか、ということが多少なりとも見えてくるような気がする。本書がどう「小説ではない」かは、たとえば次のような箇所を読めばわかるだろう。

 タイカン[種付け用の牡豚と出産用の牝豚]は一発では悶絶しないので、長谷さんが何度もスタンガンをこめかみに押しつける。そのたびにうめき声を上げて、ようやく倒れると、竹内さんが喉を刺して絶命させるが、太い前脚が邪魔になって胸が割れない。そこで私がベルトコンベアの上に登り、両腕で右の前脚を持ち上げる。目の前でナイフが豚の胸に突き立てられて、裂かれた心臓から血液が溢れ出す。
牝豚のときには、腹に入っていた子豚がこぼれ出すこともあって、赤裸の生き物が息絶えていくさまに、せめて産ませてから連れて来るべきではないかと憤ったりもした。

 たいへん凄惨な場面であることは間違いない。センセーショナルともいえるし、強烈で、思わず息を呑む描写だ。まさに小説家ならではの巧みな筆致。しかし、佐川は本書に頻出するこうした描写を、注意深くコントロールしている。

 たとえばそこでは、「ムード」のようなものが差し引かれている。小説の場面であれば伴うのであろう、語り手や人物の感情の横溢のようなものは抑えられているし、戦慄が物語展開の方向を示唆することもない。小説特有の複雑にぶつかり合うニュアンスや心の声のようなものも聞かれない。

 そして何より印象的なのは、この凄惨な場面が実に論理的に描かれているということだ。タイカンを解体していく作業の様子は、「一発では悶絶しないので」、「…太い前脚が邪魔になって胸が割れない。そこで私がベルトコンベアに登り…」といったように、きわめてドライに、その手順の合理性を解き明かす形で描かれている。この論理的な因果関係の明瞭さこそが、「小説ではない」と思わせる最大の要因だろう。

 そういう意味では、引用部の最後にある「牝豚のときには、腹に入っていた子豚がこぼれ出すこともあって、赤裸の生き物が息絶えていくさまに、せめて産ませてから連れて来るべきではないかと憤ったりもした」という一節も、「小説ではない」箇所の典型だと言える。「憤ったりもした」とは一見、感情的な語りだが、その「感情」は実に論理的に構築されたものである。未熟のまま放り出された赤裸の子豚のいたいけな姿そのものの悲痛さよりも、産まれるべきものが産まれていないことが許せないのである。産まれるべきものが産まれたあとで母豚を殺すならば、まだ問題はない。つまり、この憤りはやり方が「筋」から外れていることからくるのだ。きわめて理路整然とした憤りだと言ってもいい。説明可能な怒りなのである。

 おそらく多くの人にとって小説とは、「説明可能でない感情」を書いたり読んだりするための、言葉の避難所のようなものだろう。もし合理的な言葉ですべてが説明され、それで納得でき、それで解決がつくなら、小説という野蛮で、いい加減で、ゆがんだ言葉の世界は不要なのだ。しかし、佐川光晴という作家は、小説の言葉と「小説ではない」言葉の間でたえず揺れているように思える。たえず揺れることに堪えることで作家となった人なのではないか。小説の言葉は佐川にとって安住の地ではない。寝返りを打つようにして、いろいろ居場所をさぐる必要があるのではないか。『牛を屠る』を最後まで読んでつくづく思うのは、このように理路整然と自分の人生を語れる人が、よくぞ小説を書いたものだ、ということである。小説と小説の間で寝返るだけではなく、小説と「小説ではないもの」との間でも寝返る必要があるのはそのためだろう。

 だからこそかもしれないが、本書でも、ときに文章が「小説寸前」にまでなるところがないではない。とくにナイフの使い方をめぐる描写には、この作家の「腕」がおのずとあらわれる。

 

…どれほど切れるナイフでも、牛一頭を剥けば切れ味は落ちる。そのたびにヤスリをかけて、新たに切れ味を生み出してやらなければならない。目は邪魔なので、そっぽを向き、ナイフを握る右手と、ヤスリを持つ左手から伝わる感触に向けて全身を開く。
 牛の皮を剥いているのは私であり、ナイフの切れ味の全てを感じ取ってはいるが、事実として牛と接しているのはナイフであって、私ではない。ナイフと一体化するのではなく、決して埋めきれないかすかな隔絶感を意識しながら、私は牛の皮を剥き続けた。

手先が不器用なせいか、筆者は折り紙の教本だの、料理のつくり方だの、靴箱の組み立て説明書だのといったものがうまく理解できたためしがない。本書でせっかく開陳されるナイフ使いの技術についても、合理的に説明されればされるほど、何だかよくわからなくなってしまうのだが、「ナイフと一体化」のような書かれ方をすると、わかったような気になるところが嬉しい。それこそ、著者自身が解体の合理性からちょっと離れて、ナイフの快楽に淫している刹那なのだろう。

 牛や豚の「熱さ」が語られるところも印象に残る。

「死」には「冷たい」というイメージが付きまとう。しかし牛も豚もどこまでも熱い生き物である。ことに屠殺されていく牛と豚は、生きているときの温かさとは桁違いの「熱さ」を放出する。(中略)

 喉を裂いたときに流れ出る血液は火傷をするのではないかと思わせるほど熱い。真冬でも、十頭も牛を吊せば、放出される熱で作業所は温まってくる。切り取られ、床に放り投げられたオッパイからは、いつまでたっても温かい乳がにじみ出る。

我々にとってたいへん身近でありながら、巧みに隠蔽されている「屠殺」という作業について、社会とのそのほんとうの関係を明晰な言葉で説明する、それが本書の眼目と言っていいだろう。しかし、解体される牛や豚の「熱」についてこうして語る著者の姿には、少し身を乗り出すような、暗い興奮が垣間見えなくもない。薄いのに情報のぎっしり詰まった本書だが、そうして漏れ出る部分にまでこちらの目を誘うような、関節のやわらかさがあるのだ。読みやめることの難しい本である。

 


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