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『ぼくは猟師になった』千松信也(新潮文庫)

ぼくは猟師になった

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 狩猟というと「特殊な人がする残酷な趣味」といった偏見を持っている人が多いです。


 また、狩猟をしていると言うと、エコっぽい人たちから「スローライフの究極ですね!」などと羨望の眼差しを向けられることがあります。でも、こういう人たちは僕が我が家で、大型液晶テレビお笑い番組を見ながら、イノシシ肉をぶち込んだインスタントラーメンをがつがつ頬張っているのを見ると幻滅してしまうようです。

 まえがきにこのようにあったので、本文に入るまえに、都市生活者であるところの私の日常とはだいぶ隔たりのある「狩猟」というものへの構えは吹き飛んでしまった。

 著者は、大学在学中に狩猟免許を取得し、運送会社で働きながら猟師を続ける1974年生まれ。京都在住。

 この情報と、タイトルをはじめとする本ぜんたいの佇まいからして、ここに書かれてある「狩猟」が、「特殊な趣味」でも「究極のエコ」でもないことは想像されるものの、やはりそうかと安心する一方、いきなりこう切り出されては、なんだか出鼻をくじかれた気にもなる。

 身近にいる生きものと触れあって育った子供時代。寮での生活にどっぷりはまっていた学生時代。アルバイトにあけくれ、アジアの国々を放浪し、東ティモールへボランティア要員として渡った休学期間。そして、大学へ戻ってから狩猟免許を取るにいたるまでの経緯。はじめて獲ったシカを寮の仲間と一晩で食べ尽くした大宴会。卒業後にみつけた山と街との境目にある住まい。ワナの準備に毎日の見回り、ワナにかかった獲物との格闘、その解体、その食べかた等々、猟期の日々の具体的なあれこれ。春は山菜を摘み、山の果実で果実酒を漬け、夏にはアユやアナゴやタコなど、水のなかにいる獲物を獲りに皮や海へと出て行くという休猟期。

 この、著者がいかにして猟師になり、どのような生活を送っているかの手記を読み終えてもっとも印象にのこったのは、もったいぶりや衒いのない、なんとも直裁なその語り口である。決して読みやすいわけでも、上手い文章というわけでもないが、著者の生活、生きるしかたがにじみ出ている。

 著者が「猟師である」ということは、「自分で食べる肉は自分で責任を持って調達する」ということ。獲物は、自分や家族、友人たちだけで食べる。売ってお金に換えるということは基本的にはしていない。猟の方法は、ククリワナというワナによる猟と、無双網猟とよばれる網猟である。鉄砲は使わない。ワナ猟ではシカとイノシシ、網猟では宮本さんという師匠をはじめ猟友会の人たちとともにカモを獲る。

 ワナにかかった獲物をしとめるには、鉄パイプで眉間をどつき、ナイフで心臓を突く。獲物はなるべく早く解体しなくてはならないのだが、それはとてつもない大仕事なのだ。以下はイノシシの場合。

 ……まずはイノシシの体に付いた泥をホースで丁寧に洗い流します。泥が付いたまま解体にかかると、肉が汚れてしまいます。


 それがすんだら腹を割き、内蔵を取り出します。その際にあばらから鎖骨の結合部分までの胸骨をナイフでゴリゴリときっちり割っておくと内臓が取り出しやすく、なかの処理もしやすいです。腹を割く際にはナイフの刃を上向きに使い、胃や腸などを傷つけないように注意します。もし胃や腸が破れて内容物が出てしまうと肉に臭みが付いてしまいます。また、尿道にも気をつけなくてはなりません。


 内臓は、腹の内側に張りついているので、その間に手をつっこみベリベリと剥がすようにはずしていきます。その際、胃や肺と口をつなぐ食道や気管は引っぱって抜けなければ適当なところで切ってしまいます。この際に気をつけないといけないのは肝臓に張りついている胆のうを破らないこと。これを破ると、とてつもなく苦い汁、胆汁が出て肉に苦みが付いてしまいます。


 ある程度内臓を取り出せる状態になったところで、一番のポイントである膀胱と肛門の処理にとりかかります。


 まず膀胱の位置を確認し、絶対に破らないようにそっとしておきます。余裕があれば出口をヒモで縛ってもよいです。肛門のまわりに外側からナイフを入れ、円を描くように肉ごと切り取ります。また膀胱とつながっている尿道も周辺の皮、肉とともに切り取ります。これで肛門、尿道、膀胱も含め、内臓すべてが体から切り離されたことになります。肛門は、腹のなかからつながっている腸を引っぱると、うまく切り取れていれば、スポッと抜けます。これであとは内臓を丸ごと体外へ放り出すだけです。

 「あとは丸ごと体外へ放り出すだけです」と、まるで屈託なさげに記されているようだけれど、読んでいると、ああ、きっとここは、まさに「放り出す」のだろうなあ、と妙に納得できてしまうのだった。余計な修飾がなく、要点のみをおさえた表現はむしろ、解体の現場が彷彿とされる。

 その後、心臓とレバー以外は山に埋め(こうすると、タヌキなどが掘り返して食べてくれるので、山のものは山へ、無駄にすることなく返すことができるという)、体のなかの血を洗い、氷をつめて冷やせば、ひとまずの処理はおわる。著者はこれを朝、出勤まえの三十分たらずのあいだにやってのけているのだから恐れ入る。私など、この部分を読みながらあれこれ想像し、考えをめぐらせてうんうんと唸っているだけで三十分経ってしまっています。

 肉を食するために、多くのひとはスーパーマーケットや精肉店で売られている肉を買う。その、肉が商品になるまでのテマとヒマに金を支払うところを、著者は自らでまかなう。そしてそれは著者にとって、「生活の一部のごく自然な営み」であるという。

 「生活の自然な営み」などと、私もふだん何気なくいったり書いたりしているが、読後あらためて、著者がさらりといってみせたこのことばを思いかえすと、考えこまざるをえない。私の「生活の営み」や、私が「自然に」していたり「自然だ」と感じていることと、著者のそれとの隔たりは大きい。「生活の営み」とはつまるところ、テマとヒマの連続である。そのテマとヒマをどう捉え、扱うかによってひとの生きかたは大きくかわる。

 「肉を食べる」ことにおいて、著者の選んだテマとヒマは、単なる「労力と時間」の枠を超えて、たとえば自然への対しかたやひととのつながり、それからもっとちいさな、暮らしのなかでの些細な事柄にまで影響をおよぼして、このひとの生活を形作っているのだろう。多くのひとが踏むことなくすごしてします手間暇が生み出す、著者の生活の息づかい、緩急の波のようなものから、その淡々とした語り口は生まれているのだと思う。


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