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『小僧の神様 他十篇』志賀直哉(岩波書店)

小僧の神様 他十篇

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「待つということ」

 志賀直哉を読み返すのは20年ぶりくらいなのだが、あまりに圧倒的で参ってしまった。そういえばそうだった。こういうふうに「あまりに圧倒的だ」と思わせるのが志賀の得意技なのだ。

 この岩波文庫版は初期から中期にかけての作品を集めたもので、本文は200頁くらいのごく薄い短編集である。その真ん中あたりに「城の崎にて」が入っている。9ページ。原稿用紙で二〇枚くらいか。とにかくこれを読んだだけで、本を一冊読了したくらいの満腹感がある。もうほかの小説を読まなくていいという、「愛の頂点」のような気分にしてくれる。

 それにしても、これほど身勝手な人間はいない。エゴのかたまりみたいな文章である。これが小説かよ、と思わせる。私小説どうこうとか、主観がどうこうということではない。あるいは志賀自身がよく使う「ありのまま」とか写実といったことでも解決がつかない。

 同じ選集に「小僧の神様」という、うまさの極地をいくと言われる作品も入っているので「城の崎にて」と読み比べてみるといい。「小僧の神様」の方は、さあさあと手を引かれて中をのぞいてみると、よくできた落語みたいによどみなく話しが展開して、あれよあれよという間に結末にたどり着く。〝オチ〟の爽快感もばっちし。鮨まで食べた気になる。いや、思わず鮨が食べたくなる。そんな小説である。

 これに対して「城の崎にて」の無愛想なことときたら…。鮨も瓢箪も出てこないし、9ページしかないのに、出だしの一文はこんな具合なのである。

山の手線の電車にはね飛ばされてけがをした、そのあと養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。二三年ででなければあとは心配はいらない、とにかく用心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――がまんできたら五週間ぐらいいたいものだと考えて来た。

まちがえて他人にかかってきた電話に出てしまったようなものだ。いきなりプライベートな話をくりだされて、恋愛沙汰とかならともかく、よりによって怪我をした話かよ、と思う。事故現場のヴィヴィッドな描写があるわけでもなく、妙に生々しい病名が出てきてあとは養生のことばかり。三週間にするか、五週間にするかなどと、おもしろくもないことで勝手に悩んでいる。

知るか!という気になる――なりそうなものである。しかし、そうはならないところが志賀直哉の不思議。いつの間にかこっちを自分のペースに巻きこむのである。そういう文章なのだ。第二段落になっても、第一段落の無愛想さはいっこうにかわらない。

頭はまだなんだかはっきりしない。物忘れが激しくなった。しかし気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持ちがしていた。稲のとり入れの始まるころで、気候もよかったのだ。

何なのだろう、このくつろぎぶりは。「私は」くらい言えよ、と言いたくなる。この短編、「私」とか「僕」といった主語がほとんど出てこない。「自分」という言葉はだんだんに増えてくるのだが、一般に使われる主語の「私」のように、「これは私が私のことについて語っているのだ!どうだ!」というライトアップの伴うような「屹立」のニュアンスはあまりない。あくまで必要があって事務的に関係を明示するだけに聞こえる。でも、だからといって、著者が慎み深いわけではない。

 オレが主語なのはあたりまえでしょ?というのが志賀直哉の世界なのである。いちいちライトアップして屹立する必要などない。実にあつかましいのだ。しかし、このあつかましさに、読者は参ってしまう。最後までしっかり立っていてくれるなら、どうぞ勝手にやってくれ、どうどんエゴで押してくれ、と思ってしまう。それで許されてしまう書き手がいるのだ。まれに。

 志賀直哉という作家が「小僧の神様」のような作品と「城の崎にて」のような作品の両方を書けてしまったこともすごいのだが、「お愛想」という意味では対照的なこの二作に、意外に共通したところがあるのもおもしろい。しかもそれは、志賀の強烈なエゴの神髄にあるものを示している。この作家は〝待つ〟のが実にうまいのだ。

 たとえば「小僧の神様」。この作品の安定した語りを支えているのは、決して登場人物や語り手が忙しく先走ったりしないということだ。だから、

彼はふと、先日京橋の屋台すし屋で恥をかいた事を思い出した。ようやくそれを思い出した。

というようなどうということのない一節が、すごく効いてくる。「ふと」が殺し文句になるのだ。じっと待ってきたその準備があったおかげで、「ふと」視界が開けてきたり、思いついたり、合点がいったりという地点が、小説の誘惑的な瞬間として、このうえなく小説的な色気をもってくる。あの有名な結末もまさにそうで、最後には語り手が出来事を悠々と見送る。じたばたとは動かない。後ろから、遅れて、出来事をながめる感じこそが、作品世界を立ち上がらせるのである。決して結末だけが奇抜なわけではない。語り手はいつだって、辛抱強く待っている。

 〝待つ〟ということは、志賀直哉のあの徹底したマイペースとも連動している。「城の崎にて」にはそれがよりはっきり出ている。「ありのまま」を書いたというこの小説、出来事や言葉は先に進んでいくが、芯にある意識のカタマリのようなものが悠然と動かない。いろいろ悩んでいるらしいのだが、何だかんだ言って、どてんと居座っている――圧倒的な存在感とともに。のろまさゆえの存在感と言ってもいい。意識が言葉から取り残されてしまったような、妙な乖離の感覚さえある。芯にあるこののろまさと、身の回りで起きることや言葉で語られることとのずれ具合が壮絶なのだ。

 「城の崎にて」の終わり近くに印象的な一節がある。あらためて事故のことを思い出す箇所で、作品のおそらく急所だ。ここを通過するおかげでこそ最後の、これも有名な「いもり殺害」の場面が、不思議な輝きを帯びてくる。結末への助走になっているということだ。

「フェタールなものか、どうか? 医者はなんといっていた?」こうそばにいた友にきいた。「フェタールな傷じゃないそうだ」こう言われた。こう言われると自分はしかし急に元気づいた。興奮から自分は非常に快活になった。フェタールなものだともし聞いたら自分はどうだったろう。その自分はちょっと想像できない。自分は弱ったろう。しかしふだん考えているほど、死の恐怖に自分は襲われていなかったろうという気がする。

この辺まではまだいい。あいかわらず自己中心的なことこのうえない。相手のことなどおかまいなしに、どうでもいい私事に拘泥している。だが、言っていることはわかる。それが、だんだん何を言っているのかわからなくなってくる。

そしてそういわれてもなお、自分は助かろうと思い、何かしら努力をしたろうという気がする。それはねずみの場合と、そう変わらないものだったに相違ない。で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方がほんとうで、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それはしかたのない事だ。

それまでと同じペースで読んでしまったら、あれ?と思う箇所だ。本人の中では思考がつながっているようだが、読んでいる方としては、文章がこんがらかって見える。でも、頑張って解析して、いったいどれほどの内容が出てくるだろう。むしろこだわりの芯がぐずって、その場に座りついてしまっている感じが大事なのだ。鈍重な悩みが、文章の流れそのものから置いてけぼりを食っているように見える。

 しかし、つくづく不思議なのは、悩みにも自意識にも共感できないのに、なぜか読者は引っ張りこまれてしまうということだ。「それでいいのだと思った。それはしかたのない事だ」なんて平然と言っていて、そう言われると、そういうもんですかねえ、と思ってしまう。こだわりのカタマリが悠然とふんぞり返っている、このふてぶてしいエゴに、読者は負けてしまう。読書というものの、あるいは文章というものの、根源的な魔力が垣間見えるような気がする。動こうとしないものの魔力である。

 この選集は末尾に、いかにも志賀らしい愛想のない「あとがき」がひらっとくっついている。「城の崎にて」については、三行ほどで「事実ありのまま」だとか、「心境小説」だとかあって、イモリの死にしても何にしても全部ほんとに「目撃」したのだといった説明がある。ぜんぜん役に立たない解説である。さすが、と言うほかない。平気で読者に待ちぼうけを食わせる態度、まさにそのまんまではないか。やっぱり小説は〝人〟が書くのだなあ、などと、ほとんどため息のような感慨を抱かせる作家である。


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