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『ドリアン ― 果物の王』塚谷裕一(中公新書)

ドリアン ― 果物の王

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「ドリアンと〝消える魔球〟」

 本書の冒頭に、「ドリアンという言葉を聞くと、たいがいの日本人はにやりとしはじめる」とある。さっそく、ある飲み会の席上「すいません、実はドリアンのことなのですが…」と切り出してみると、あら不思議、みな「にやり」としはじめた。これはすごい。みなドリアンのことを知っている。しかも、ドリアンと聞くと、思わず口元にゆがんだ笑みを浮かべずにはおられないようなのだ。

 たしかにドリアンは人騒がせな果物である。とにかく臭い。本書目次のトップにはわざわざ「1-1ドリアンは臭くない」というセクションがあって、これだけでもすごくあやしいのに、「1-2」は「ドリアンが臭いと感じる人もいる」、そして「1-3香りの感じ方」、さらに「1-4ドリアンの香りをめぐる論争」とあり、これをながめているだけで鼻がむずむずしてくる。

 実はドリアンが臭いか臭いないかはほんとうのところは決定不能で、要するに「匂いの反応には個人差がある」「嗅いでいるうちに鼻が麻痺してくることもある」「臭いドリアンは外れ。優良ドリアンは臭くない」ということらしい。ただひどいドリアンになると、ほんとうに鼻が曲がるような匂い(を感じる人もいる)とのこと。「腐ったキャベツ」「にんにく臭」「古くなった肉」などとも形容される匂いだそうで、著者が研究室で学生とドリアン・パーティを行ったときには、隣の研究室の人々が「ガス臭がする!」と騒ぎ出して、本当にガス会社に通報してしまったこともあったという。

 しかも、あの見かけである(本書にはドリアンの近影が満載)。まるで「鬼に金棒」の「金棒」についている突起みたいだ。ハリネズミの針のようでもある。漫画に出てくるダイナマイトのようでもある。ボーリングの球くらいの大きさだから、20~40メートルもあるドリアンの樹から果実が落ちてきて頭を直撃したら、あの棘が刺さって死んでしまうかもしれない。実際、オランウータンが樹の上から雨あられとドリアンを投げつけ、人間を追い払ったという事例もあるらしい。(これこそ漫画だ)

 にもかかわらず、著者の塚谷裕一氏はドリアンがいかにクリーミィーな美味か、いかに安いか、いかにこだわり甲斐のあるすばらしい果物であるかを切々と説くのである。何よりも東南アジアに行って、街角で売られているのを食べるのがいい。そういうときに、売人に騙されずにいかにいいドリアンを見分けるか。どうやって皮を割って種を覆う果肉にたどりつくか。どうやって指ですくって食べるか。食べきれなかったら、いかに煮詰めて羊羹にするか。いかにドリアンジャムだって作れるか。とにかくおいしいドリアンに出会ったときのその幸福ときたら……。ドリアンの美味を描写する様々な作家たちの文章をならべながら、塚谷氏は「ドリアン的幸福」を生きなおすかのようである。

 というわけで、本書はタイトルから想像される通り、ドリアンのさまざまな魅力を、正確な科学的知見をもとに読みやすくてやわらかい、それでいてきちっとした安定感のある文章でつづったものである。しかし、筆者が今回の評で伝えたいのは、それだけではない。本当に気になるのは、この本の著者・塚谷裕一その人である。というか、この人の体現する「植物学的知」のようなものが気になるのである。本書のあちこちにもそれはあらわれている。

 すでに絶版なのが残念だが、塚谷氏には『漱石の白くない白百合』(文藝春秋 1993)という著作がある。表題作は、漱石『それから』に出てくる白百合が「白くない」ことを植物学的に論証したもの。その他、泉鏡花志賀直哉、安倍公房、三島由紀夫井伏鱒二などさまざまな作家が作中で描いた動植物にこだわって、独自の緻密な推理をめぐらすという趣向の文学×植物学エッセー集である。たいへんおもしろい。しかし、おもしろいだけならそれほどのことはないのだが、何より気になるのはこれらのエッセーを読んでいると、途中で「消える魔球」に出遭った気分になることなのである。

 何が魔球なのか。まず塚谷氏が文学作品からそのターゲットとなる植物を取り出す手際は見事である。植物の形状や季節、呼び方、場面のニュアンス、作家の時代、土地といった要素を実にてきぱきとつないで、息もつかせぬ考察を展開する。殺人事件など起きていないのに、まるで殺人事件があったかのような緊迫感とともに植物学的知見が駆動される。

 球が消えるのはそこである。出だしの設定の見事さと、結論のあざやかさに読者としては目がくらむような思いがするのだが、ほんとうにたまらないのは話が植物学の専門的な話題になったときの、そのふっと潜行するような冷徹さなのである。つまり出だしと結末で、淡々とした文章ながらも読者に対してサービス精神を見せていた書き手が、ふっと本気で「知」の言葉を語ってしまう。そのすべるような移行の素っ気なさというのか、怜悧さというのか、そこがいい。よくキレのいいスライダーは途中で消えるように見えるというが、きっとそんな感じではないかと思うのである。

 何でそんなことにこだわるのかというと、塚谷氏の見せる怜悧さというのは、実は必ずしも「理系的」と呼べるような限定的なものではなく、広く世界に対する感受性のようなものを示していると思えるからである。塚谷氏の著述については、一般には「植物学者なのに文学をも扱う幅広い人・珍しい人」という言い方がされるのかもしれないが、両者はそもそも分離される必要があるのだろうか。こうして塚谷氏の目を通してあらためて文学作品を見ると、少なくとも近代文学のある時期までは、植物的教養のようなものが作家と世界との関わりにおいて重要な役割を果たしていたのではないかと思えてくるのである。いや、それは必ずしも狭い意味での植物学に限定される必要もないだろう。世界のあり方について、ふっと潜行するようにして、すべるようにして、ひやっと怜悧な目を光らせる瞬間が文学作品のそこここにはあったのではないか。もちろん今だってあっていい。

 単におもしろいのではない。ふっと球が消えるような気がして筆者はどきっとしたのである。つまり、自分がそんなふうには世界を見なくなっていたことに気がついたわけである。だから球が消えて見える。ということは、小説の読むべき箇所を読み逃しているということだろうか。もしくは、そのように死角と出遭うことこそが、小説を読むという体験なのか。ともかく、『漱石の白くない白百合』のようないかにも際どい著作に限らず、より一般的な『ドリアン』でも、そこに引用されるさまざまな文献に仄見える「植物学的知」に接してみて、あらためて考えさせられることは多かった。

 もちろん『ドリアン』にはほかにも読み所がある。ドリアンは戦前の日本人の「夢」の跡でもあった。かつて大東亜共栄圏を幻想し南方進出を夢見た日本人は、南方系の甘味の勝った果物に憧れを抱いた。戦後そのような幻が消し飛び、入れ替わりに西洋風の価値観が流入すると、果物に対する態度がころっと変わる。「酸味のイデオロギー」の登場である。甘味中心の南方系の果物に対し、酸味の混じり具合を評価するのが西洋風の果物観だった。塚谷氏の「ドリアン礼賛」は、そうした西洋一辺倒の風潮に異議を唱えるものでもある。なるほど、こちらは言わば「ドリアンの社会学」である。

 本書は2006年の刊行。つい最近の「図書」(2012年6月号)にも著者が「ドリアンの時代とマーラーの時代」という秀逸なエッセーを書いているので、まずはこちらをのぞくのもいい。この本の執筆で世にドリアン旋風を巻き起こそうとした著者の思惑ははずれたようだが、それもまた一興である。


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