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『小林秀雄の恵み』橋本治(新潮社)

小林秀雄の恵み

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小林秀雄を語る方法」

 小林秀雄の『本居宣長』が最後まで読めなかったという人には、お薦めの本である。いや、小林秀雄などまるで興味がない、小林秀雄のどこが偉いのかさっぱりわからない、という人にもいい。もちろん、ニッポンの批評と言えば小林秀雄だ、という人も読むべきである。

 ある意味、残酷な本である。橋本治の批評は下からくる。あくまで低姿勢。それがかえって怖い。逃げ道がないのである。きちんと手順を踏んでいて、ちゃんと証拠もあげるし、引用も丁寧。文章もわかる。何より、読者の「そうだよな」という頷きを誘うような〝常識〟に話が落ちる。つまりあらゆる意味で非小林秀雄的なのだ。では、ほかならぬ小林秀雄がその橋本治の手にかかったら、いったいどうなるか。

 もっとも特筆すべきは、橋本が〝決して小林秀雄のことを悪く言わない〟ということだ。これはなかなか参考になる。橋本治小林秀雄のふたりを並べてみれば、どう考えても前者が後者に心酔していたとは思えない。その橋本がこともあろうに第一回小林秀雄賞を受賞してしまった。それで否応なく宿題が突きつけられてしまったわけである。

 では〝決して小林秀雄の悪口を言わない〟橋本はどんな作戦をとるのだろう。「あとがき」に、この本を書くきっかけとなった一言が引用されている。小林秀雄賞授賞後の記者会見での発言である。

私は別に、小林秀雄がなにものであるかということへの関心はないんです。あるんだとしたら、〝小林秀雄を必要とした日本人〟とはなにものだったかということへの関心があるだけです。

やっぱり。怖そうなコメントだ。自分が小林秀雄だったら、こんなことを言われたら嫌だろうな、と思う。このコメントと考え合わせると、冒頭の発言もとてもいやだ。かつて橋本治が『本居宣長』をあらためて読み始めたときのこと。

「昔の自分はバカだから読めなかったろうが、今の自分ならなんとか読めるだろう――読めなかったら読めないで、バカにする手もあるさ」と思って、「『本居宣長』――書評」と題される一文を書くために、三十七歳の私は、小林秀雄の本を読み始めた。そして、感動してしまった。「小林秀雄はいい人だ」と思った。私は日本の知的社会に「いやなもの」を感じていたので、その日本の知的社会の中枢に「いい人」がいたことを感じて、幸福に思った。(中略)私は、小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考の形が知りたいのである。

小林秀雄をつかまえて「いい人だ」はないだろう、と多くの人が思う。そんなことを言われたら、思わず先が気になってしまうではないか。

 『小林秀雄の恵み』は分厚い本である。三ヶ月にいっぺん文芸誌に書いて、足かけ三年。この書き方を反映してか、しばしば話は脱線気味だが、橋本治という人は自分の言ったことにきちんと決着をつけないとどうしても気が済まないようで、言いっぱなしで放り出されるような議論がほとんどない。たとえば次のような引用がある。

私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。

小林秀雄の文章である。こんなところを引用しておいて、橋本は微妙な言い方をする。

本居宣長』を何度読んでも、私は本居宣長にまったく関心が湧かないのである。(中略)私にとって、本居宣長は「退屈な存在」なのである。そう思う理由は後に述べるが、その「退屈な存在」である本居宣長を書く小林秀雄には、一向に飽きないのである。それはもしかしたら、本居宣長の前に小林秀雄が立ちはだかっているだけなのかもしれないが、「なぜこう書くんだろう? こういう書き方をするんだろう?」と思い、小林秀雄本居宣長の間にあるズレのようなものを感じながら、私の関心は、書かれる「本居宣長」より、「『本居宣長』を書いている小林秀雄」の方に向かってしまうのである。

こうなると、「本居宣長」と「『本居宣長』を書いている小林秀雄」のズレだけではなくて、「『本居宣長』を書いている小林秀雄」と「《『本居宣長』を書いている小林秀雄》を読む橋本治」との間のズレも気になってくる。橋本治はいったい何をおもしろがっているのだろう。そのややひねりの効いたおもしろがり方を、この400頁におよぶ、難しいことも書いてあるわりにやさしい文章のこの本は、そのまま形にしている。

 橋本治は決して一体化しない。あらかじめわかったりしない。むしろ上手にズレることで、そしてときにはやっとのことでたどり着くことで、外の方から語る。何しろズレを起点とした本だから、筋肉もりもりの議論とは縁がない。それよりも引きこまれるのは、なぜ『源氏物語』を読んでいるときに思わず和歌を読み飛ばしたくなるのかとか、下手くそな和歌しか書けず、お師匠からこてんぱんにやっつけられた本居宣長は、それでも歌が好きで仕方がなかった、といった脇道の話である。

 ただ、そういう中に、〝痛点〟のようなものがある。是非読んで欲しいのは、第5章の終わり、本書のちょうど中程にある箇所だ。「『当麻』の問題点 ―― あるいは、《美しい「花」》と「美しい花」」という、ほんの数頁のごく短いセクションである。冒頭、小林秀雄の「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」という有名な断言をとりあげるところから話が始まっているのだが、この断言に対し橋本治は、そうではない、と異議を唱える。橋本治にとっては断言をするなら、「〝美しい花〟などない、花の美しさだけがある」こそが真実だという。なぜそうなのか。橋本は幼少の頃自分が、人が「美しい」と思わぬ花をみながら、「これを美しいと思うのは、これが花だからではないか?」という思いにふけったことを想起する。そしてあらためて「花とは、花であるだけで美しいからこその花である」という考えを示してみせる。その裏にあるのは次のような「実感」である。

私は、「花の美しさがある」を実感して、とほぼ同時に、「きれいな花」と言われているだけの花が、すべてきれいではないということも、実感していた。

話が小林秀雄にうつるのはこのあたりだ。ここで、この本の一大テーマであった「なぜ日本人は〝小林秀雄〟を必要したのか?」という問いへの答えが見えてくる。

「美しい花」だけが「ある」で、「花の美しさ」なんてものは「ない」と言うのなら、この人は、「花の美しさ」をとやかく言う人の言葉に悩まされていたのである。「そんないちいちチマチマした花なんか覗いたって、さっぱり分からない。いっそ、なにが〝美しい花〟かを決めてほしい。そうすれば、自分は花のいちいちに悩まされなくてすむ」――そういう嘆きと不満の声が、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」という言い切りになるのだろうとしか、私には思えない。(中略)

 私が思うことは、「日本の男って、そんなに花の名前を覚えるのが苦手なのか?」だけである。「美しい花」云々が、そんなにも有名だということは、それだけ広く日本中の男達に支持されたということで、そんな逆説にも価しないようなものが「名言」になるのだとしたら、「いかに日本中の男は花を苦手とするか」しか表さないからである。

とりようによっては「小林秀雄って、ちゃんとランボオとか読んでたわけ?」とも聞こえる箇所である。しかし、もちろん橋本治はそんなことは言わない。あくまでズレてみせる。「え?小林秀雄って、そういう人なの?」(原文ママ)と言うだけである。

実はこの章にはさらなる見事な〝落ち〟が隠されている(そこは是非、実際に読んで欲しい)。この〝落ち〟には橋本治なりの、「いい人」小林秀雄への思いやりが読めなくもないが、そのせいでかえって前半部がおっかなく見えるような気が筆者にはした。後半の「実は…」という新展開は今更あまり関係なくて、前半で十分、小林秀雄はノックダウンされているとも読める。

 橋本治の文章はたいへん読みやすいしわかりやすく思えるのだが、明晰というのともちょっと違う。今の「花の美しさ」をめぐるあれこれでも、ある一点でその文章は意固地になる。しこりのようなものが残る。書き手の痕跡のようなものである。でもそれは、この人が書いたからこそ、言葉になったとでもいう刻印なのである。筋は通っているのだがときにはけっこう強引。下手をすると、「あれ、だまされたか?」と思いたくなるような、嘘の香りの混じった書き方なのだ。ところが〝嘘の香り〟のおかげでかえって説得力が増すことがある。批評でこれをやれるのはすごいことだと思う。小林秀雄とはまるきり方法は違うが、漫遊めいた言葉の彷徨にも、「あ、」とこちらが息をのむような切っ先をつけ、最後はちゃんと目的地にたどり着くという批評なのである。


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