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『言語ジャック』四元康祐(思潮社)

言語ジャック

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「無理に詩人である必要はありません」

 詩人には二通りいる。

 まずは言葉の遅い詩人。どちらかというとその言葉が読者より〝遅れている〟と感じられる詩人だ。読む人の方が先を歩き、詩は後から追いついてくる。読者は少しペースを落としたり、聞き耳を立てたりしないと、なかなかその詩の世界には浸れない。忍耐が必要だ。こういう詩人は、詩人のくせに言葉少なでもの静かで、一行にせいぜい十字くらいしかしゃべらない。「自分にしゃべれるのは詩だけなんです……」というような追い詰められた頑なさがあって、それぞれの言葉へのこだわりも強く、どうしてもこうでなくっちゃ、と寸分のスキもないような語り口をとる。自分のやり方は決して変えず、読者が自分のペースに合わせてくれるのを待っている。

 こういう詩を読むのは、書いた人の生理や神経に没入するのに等しい。密着型である。読むことと、好きになることとがかなり近接している。というか、好きにならないと読めないのかもしれない。でも、日本の近現代詩の主流は、たぶんこういう詩人によって作られた。たとえば三好達治

 しかし、それとは逆に、いちいち読者の一歩先を行くような詩人もいる。これがもう一方のタイプである。文字通り多弁でやかましい。どんどん先に歩き、読者だけでなく語る自分自身さえも置き去りにしてしまう。固有の文体だの生理だのということにはこだわっていないように見える。求めているのは刺激と、強度と、そして変化。読者もじっくり待つような忍耐はいらないかもしれないが、わあわあしゃべる早足の人を後から追いかけていくのはそれはそれでたいへんである。テキトーに聞き流しながらテキトーにお付き合いする必要がある。

 このような詩人はたいてい「異色」などと呼ばれる。たとえば鈴木志郎康とか。小説家だけど、町田康もそんな感じだ

 では、四元康祐はどうしたものか。経済用語を駆使した作品などで『笑うバグ』が評判になったとき、四元は間違いなく「異色」の詩人だった。たしかにその詩は、詩とは思えないほど雄弁で、滑走的で、元気で、やかましかった。日本現代詩に特有の、あの薄暗い病の香りがない!

 しかし、四元は一歩先を行くことでこちらの神経を逆なでしたりくすぐったりするタイプの詩人ともちょっと違うようだ。遅れるにせよ、先回りするにせよ、現代詩は〝変な言葉〟で語ることを共通のルールとしてきた節がある。これに対し四元は〝ふつう〟であることを恐れない。この『言語ジャック』を読めばわかるように、無理して詩人のふりなどしようとはしない。むしろ、詩との間に距離を置くのだ。その作品からはいつも、「詩って変ですよねえ」という囁きが聞こえる。「詩人って変わってますね」「詩って何なんでしょう」「不思議ですね」「でも、妙におもしろくないですか?」「かわいらしいし」「ね、いじくっちゃいません?」という態度である。

『言語ジャック』の特徴は、多くの作品が「詩の変奏」という形をとっていることだ。必ずしも既存の作品のパロディとか、本歌取りといったことではない。四元は私たちの中にある「詩」という常識そのものを変奏していくのだ。しかも、そこには何ともいえない不思議な言葉の連なりが生まれている。「そうか、こんなふうにして詩とはありうるものなのだ」と、ちょうどクレーの絵をはじめて観たときのような感慨を筆者はもった。とりわけ印象的だったのは、「俺の『な』」という作品。こんなふうにはじまる。  

俺の出番は正確に午後九時三分二十七秒であった。それより一秒早すぎても遅すぎても、極刑に処せられるのだ。俺のセリフ、というか受け持ちは「な」であった。それがどんな文のどんな単語に組み込まれるのか、母国語なのか外国語なのか、はたまた意味のない掛け声のごときものであるのか、もとより知り得る術はなかった。ともかくそれはひとつの音素としての「な」なのであった。

どうやら「全人民が声を合わせて、あるひとつらなりの声を響かせる」儀式が行われるのらしい。この語り手はなにやら「胸が騒ぐ」。いったい何なのだろう。まるでサッカー場のウエーブ。最後まで読んでもはっきり種明かしがあるわけではない。むしろ謎は深まる。

九時前、我が町を人語の洪水が襲った。耳を聾する大音響のなかで、隣家の赤ん坊の泣く声と、どこかの犬の吠え声がくっきり聴きとれて、あれも然るべく定められたセリフだったのか。午後九時三分二十五秒、俺は深々と息を吸い込み、大きく口を開き、舌先をぴったり口蓋にくっつけて、我が「な」の出番を待っていた。

こんなふつうの言葉で、こんな不思議なシーンを書けてしまうというのはまったく驚きだ。これだけたくましく書かれていれば、無理に「詩」と呼ぶことで保護する必要すらないかもしれない。でも、こういう試みを「詩」というカテゴリーに入れておくことで、言葉についての私たちの可能性のようなものが守られるのだと思う。

『言語ジャック』はとにかく言葉の使い方をめぐる可能性にあふれた詩集だ。政治家の不用意な発言(元法務大臣の「ベルトコンベヤーで運ばれていくように、死刑の執行ができないものか」)を見事に変奏した「ニッポンの真意」は、安直なパロディなどではなく、とぎすまされた威力を発揮している。

…よろしい、「ベルトコンベヤー」が不適切なら、いくらでも言い換えよう――


星座が夜空を巡るように死刑を執行できないものか

十七年蝉が土中で蛹から孵るように死刑を執行できないものか

降りしきる驟雨がオミナエシを揺らすがごとく死刑を執行できないものか

雪の朝の初潮のように死刑を執行できないものか

回転するルーレットの上に浮かび上がる数字の幻影のように死刑を執行できないものか

法務大臣への皮肉など読んでも仕方がない。むしろそれをきっかけに噴出した、言葉をめぐるこの場違いな祝祭感覚が圧倒的なのだ。よくわからないがとにかく言葉が押し寄せてくる、言葉に酔ってしまう、そんな酔いの可能性がこれでもかと提示されるのである。

 「名詞で読む世界の名詩」などは今後、ときどき引用される作品となるかもしれない。もちろんこういうのは、最初にやった人が偉い。

秋 夜 彼方 小石 河原 陽 珪石 個体 粉末 音 蝶 影 河床 水

中原中也「ひとつのメルヘン」)


蠅 時 部屋 静けさ 空 嵐 目 涙 息 攻撃 王 形見 遺言 部分 署名 羽音 光 窓

(エミリー・ディキンソン「蠅がうなるのが聞こえた――わたしが死ぬ時」亀井俊介訳)


あれ 何 永遠 太陽 海 見張り番 魂 夜 昼 世間 評判 方向 己れ 自由 サテン 燠 お前 義務 間 望み 徳 復活 祈り 忍耐 学問 責め苦 必定
アルチュール・ランボー「永遠」宇佐見斉訳)

ちなみにこの詩にはリルケ三好達治金子光晴ジョン・ダン寺山修司ガートルード・スタイン北原白秋などの作品からスカギット族の歌謡に至るまで実に幅広い作品が登場する。お見事。

 こんなふうに詩と関われるのだ、いや、関わってもいいのだ、と身をもって示してくれただけでも大手柄だ。すごい、と褒めたくなる。詩集には全体に、詩人がマジシャンのようなシルクハットをかぶって、手品をやってみせたり謎々を出したりするような雰囲気が漂ってもいるが、ほんとうは答えだの種明かしだの放棄して、だまされたままでいるのが一番幸せな読み方だろうなとも思う。

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