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『生きる希望―イバン・イリイチの遺言』イリイチ,イバン(藤原書店)

生きる希望―イバン・イリイチの遺言

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「異様な思想家の「遺言」」

 イリイチの晩年に行われたインタビューで、前の『生きる意味』と同じように、イリイチが胸襟を開いたディヴィッド・ケイリーが対話の相手。特に後期の著作についての説明が興味深い。晩年のフーコーは、ニーチェ道徳の系譜学に依拠しながら、司牧社会がいかに現代の福祉社会に転換されていったか、そこにどのような倒錯が含まれていたかを追求した。

 そして聖職者としての心構えを死にいたるまで失うことがなかったイリイチも、まさに同じテーマを追いかける。イリイチフーコーと話し合ったことがあると語っているが、おそらくこの問題も話し合われたに違いない。この時期のイリイチは、あるときはフーコーを、あるときはアレントを、あるときはレヴィナスを彷彿とさせる。

 隣人愛のテーマについて、イリイチは面白い物語を語る。中国のある改宗者が第二次世界大戦の直前に、ローマまで徒歩で巡礼することを決心した。そのときにどのようにして宿を確保したかという話である。「中国では、自分が聖地に向かって歩く巡礼者であることさえ分からせれば、食物を貰え、施しを受け、寝る場所を与えられた」(p.108)という。人々の道義心と習慣だけで通用するのである。

 ところがギリシア正教の地域に入ると、少し事情が変わる。「教区の運営する家にベッドが一つ空いているから行くようにとか、あるいは牧師の家に行くように」(同)とか言われる。制度化が始まるのである。カトリックの国であるポーランドに入ると、「彼を安ホテルに押し込めるために気前よくお金をくれる」(同)ようになる。寝る場所のない人々には、「特殊な簡易宿泊所があるべきだといるのは、栄光に満ちたキリスト教西欧の観念」なのである。制度がシステムに成長しているのである。

 イリイチはこのことについて「困っている人々すべてに開かれた試みが、客人に厚誼を与える気持ちの低下とケアを与える制度によって置き換えられる」(同)と指摘する。ケアの制度にはもちろん好ましい要素がある。「栄光」の現れでもある。しかしそこで失われるものがあるのだ。「現代の福祉社会が、客をもてなすキリスト教徒の習慣を堅固なものとして拡張する試みであることには、何ら疑いの余地はありません。他方、それはたちまち倒錯しました。誰がわたしの他者であるのかを選ぶ個人の自由は、サービスを提供するための権力と金の行使に形を変えました」(p.109)。まさにその通りである。

 イリイチは、現代とは罪というものを理解できなくなった時代だと考える。それは善と悪が認識できなくなったからである。「善は絶対的なものです。光と目はただ単にお互いのために作られ、その疑問のない善は深々と経験されます。いかし一旦、目はわたしにとって価値がある、なぜならそれはわたしに見ることを可能にし、世界の中で方向を選んで位置を決めるのを可能にするから」(p.122) と言った瞬間に、善と悪の次元から、価値の大小の次元へと移行してしまう。これは道徳の次元から哲学の次元に入ることだとイリイチは指摘する。そして経済の次元に入ると、「わたしはもはや誰かある別の人間になってしまいます」(同)。「善悪の観念を価値と非価値で置換することが、それまで罪を根拠付けていた基盤を破壊した」(同)のである。

 善悪の観念が喪失されるとともに、罪は外部の法廷で裁かれようになる。イエスは誓約することを禁じた。ファリサイ派の規律と法を否定した。しかし教会はふたたびこの法を導入する。「教会法は規範となり、これを冒涜すれば地獄落ちです。……福音の示唆しているあの法からの解放という行為のもっとも興味ある倒錯形態の一つです」(p.166) 。もっともイリイチは告解の実践は高く評価する。「もっとも慈悲深い魂のカウンセリングの模範、牧師のケア」(同)である。しかしその「ケア」は両義的なのである。

 イリイチはときどきすぐには理解しがたい概念をもちだすことがある。「罪の犯罪化から避けがたく生じた帰結」(p.171)を「UFO」と名付けたりするからである。しかしきちんと説明を聞けば、納得することができるものばかりだ。異様な立ち位置から、異様な深さまで、錐のように思想を掘り下げた異様な思想家の「遺言」である。

【書誌情報】

■生きる希望―イバン・イリイチの遺言

イリイチ,イバン【著】ケイリー,デイヴィッド【編】

■臼井 隆一郎【訳】

■藤原書店

■2006/12/30

■409p / 19cm / B6判

■ISBN 9784894345492

■定価 3780円

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